球都桐生の高校野球

球都の熱源。桐生が誇る『高校野球』の歴史

市内6校のうち5校が甲子園に出場している「桐生の高校野球」。春夏合わせての出場記録は県内最多、50回を超える。

市内の高校のほぼ全てが聖地への切符を掴んでいるというのは全国でも稀少で、それが“球都”たる所以の一つでもある。

本項では各校の実績を紹介すると共に、桐生の高校野球を知る者たちがその魅力を語る。

桐生高校

桐生高の野球部は大正時代からのべ100年を超える歴史を持つ。野球部の創設者で30年以上チームを率いた名将であり、「桐生のとうちゃん」こと稲川東一郎監督がその伝統を創ってきた。

旧制桐生中時代の1927年に初出場して以降、稲川監督が率いた約35年間では春夏合わせて計24回甲子園出場。うち2度のベスト4そして2度の準優勝へと導いた。

当時から全国に先乗りスコアラーを派遣し対戦相手の分析を行う戦略や、工夫が凝らされた練習を数々行う“稲川道場”は、教え子にとどまらず今も語り継がれる伝説となっている。

55年春のセンバツでは、今泉喜一郎(元大洋)と田辺義三(元西鉄)のバッテリーを中心に戦い、甲子園決勝へと進出。

浪商と対戦し、稲川監督は当時の超高校級スラッガー・坂崎一彦(元巨人)を全打席計敬遠を指示したが、延長11回に1度きりの勝負で本塁打を浴び敗れ、全国制覇には惜しくも届かなかった。

78年には木暮洋・阿久沢毅の二枚看板を擁し、当時23年ぶりに春夏連続での甲子園出場を果たす。春にはベスト4入りを果たし、夏には優勝候補に挙げられた。

春夏通算26回の甲子園出場は県内最多を誇り、卒業後の各カテゴリーで名選手・名将となる野球人を輩出している。球都桐生のルーツはここ”桐高“にある。

○学校名:群馬県立桐生高等学校

○通称:桐高(キリタカ)

○野球部設立年:1922年(大正11年)

○甲子園出場記録 ※旧制桐生中時代を含む
春:12回(1933年・36年・39年・40年・41年・47年・50年・55年・58年・64年・67年・78年)
夏:14回(1927年・30年・31年・34年・35年・36年・39年・47年・51年・55年・58年・63年・66年・78年)

○主な出身者:

青木正一

皆川定之とともに誕生した桐高初のプロ野球選手。旧制桐生中時代に春夏合わせ4度の甲子園(34年夏・35年夏・36年春夏)に出場。

36年春のセンバツ大会ではエースで4番として初の準優勝へと導いた。37年に皆川と大阪(現:阪神)タイガースに入団し、3年間プレーした。

皆川定之

同じく青木と4度の甲子園に出場し、大阪タイガースでもプレーした。1941年オフに戦況の影響から退団し、全桐生に所属。都市対抗野球にも出場した。

その後急映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)でプロの世界に戻ると、のちに監督も務めた。ポジションは遊撃手。

常見茂

旧制桐生中時代に投手として3度(39年春夏・40年春)甲子園出場し、その後は法大を経て全桐生に在籍。28歳の50年にプロ入りし、1シーズンではあったが東急フライヤーズでプレーした。

常見忠

茂の8歳下の弟で、投手として47年春夏の甲子園に出場。明大に進学後は中退し、兄と同じ東急に入団し2年間在籍した。

毒島章一(51年〜53年)

51年夏に1年生ながらベンチ入りし、甲子園に出場。54年に東映フライヤーズに外野手として入団。以降、東映一筋18年でプロ通算2056試合に出場し、1977安打を記録した。

長らく主将を務め、“ミスターフライヤーズ”とも称された。引退後もコーチを歴任し、西武では根本陸夫氏の下でスカウトも長らく務めた。

田辺義三(53年〜55年)

55年春夏に捕手として甲子園に出場し、春では2度目の決勝へと導いた。卒業後は西鉄(現:西武)ライオンズへ入団し、三原脩監督・中西太選手兼任監督らのもとで9年間プレー。野武士軍団の一員として背番号「10」を背負った。

今泉喜一郎(53年〜55年)

エースとして田辺との黄金バッテリーを形成し、伝説の55年春では準々決勝の明星高戦ではノーヒットノーランを達成した。

そして決勝の浪商戦では延長11回に力尽き、“悲劇のヒーロー”になった。卒業後は大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に入団し、外野手に転向し8年間在籍した。

木暮洋(76年〜78年)

エースとして3年の春夏に甲子園出場を果たし、桐高を12年ぶりに聖地へと導く。特に春では準決勝まで進出し、途中26イニング連続無失点の記録も樹立した。

その後は早大に進学し六大学の舞台でも活躍。通算17勝10敗で、防御率2.32の成績を残した。特に82年秋には5勝を挙げ、大学創立100周年の節目に優勝の花を添えた。

阿久沢毅(76年〜78年)

主力打者として木暮と共に黄金期を築く。78年春の選抜ではは王貞治以来となる2試合連続本塁打を放ち、打で牽引した。

その後は群馬大に進学し準硬式野球部に入部し、硬式野球の世界からは離れた。大学卒業後は小学校の教員を経て高校野球指導者を長らく務めた。

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