桐生に誕生した日本で戦後初の社会人野球チーム
『全桐生(オールキリュウ)』

戦後初の野球チームが希望の光に
終戦直後、国民が途方に暮れていた時に野球で一筋の光が灯された。
戦争から復員した旧制桐生中(現:桐生高)や桐生高等工業学校(現:桐生工高)出身のOBらが、稲川東一郎・桐生中監督の元に集まっていた。
ここでいち早く練習が始まり、戦後日本における初の社会人野球チーム「全桐生(オール桐生)」が結成された。
メンバーには青木正一・皆川定之・中村栄・三輪裕章らの元プロ野球選手が多数在籍しており、その実力は『そのままプロで戦ってもおかしくない』と評判を集めた。
終戦からわずか3か月後の1945年(昭和20年)11月18日、全桐生はプロ野球チームであるセネタースと対戦した。
この試合は日本で初めて再開された戦後プロ野球の試合と記録されており、「戦後プロ野球の夜明けの地」としての球都桐生の伝説として今も語り継がれている。
その5日後となる23日からは「全日本職業野球団東西対抗戦」が行われ、24日に行われた第2戦の舞台が桐生新川球場(現:新川公園)だった。
その翌日の11月25日には舞台を同じくし、プロ野球東軍と対戦した相手が全桐生だった。試合は延長12回の大熱戦の末、8対7で全桐生がサヨナラ勝利。観衆は熱狂して全桐生の健闘を称賛した。
東西対抗戦から翌年の1946年(昭和21年)の夏には、戦後初開催となった「第17回都市対抗野球大会」に桐生市として出場。全大阪・八幡製鉄・愛知産業と、初戦からの3試合はともに延長戦での勝利という激戦を制して決勝へ進出した。
大日本土木(岐阜県)との決勝は健闘むなしく1-3で敗れたが、準優勝の快挙を成し遂げた。

翌年も都市対抗野球出場を果たすなど全桐生の活躍は、終戦直後の荒廃した世相の渦中にあった桐生市民に明るい話題と活力を強く与えた。
そしてその名はたちまち全国へと知れ渡る。都市対抗で準優勝した後は“東日本の雄”として、北海道から中部一円の地域に招待され毎週のように各地を回っていた。
新潟遠征では電信柱に「強豪・全桐生来たる」と看板が掲げられ、球場は満員に。 ノンプロチームとしては異例の有料試合として行われ、貴重な収入源にもなったという。
その後はプロ野球の復活に合わせ、全桐生からは多くの選手がプロ野球チームや社会人野球へと羽ばたいていった。
そして稲川東一郎監督も桐生高の監督へ専念することが決まり、全桐生は解散。 戦後の復興へ向けて力強く進むための希望を市民にもたらした全桐生は、その役割を終えることとなった。
主な在籍者
青木正一
旧制桐生中(現:桐生高)では皆川定之らとともに、春夏計4度の甲子園(34年夏・35年夏・36年春夏)に出場。37年に大阪(現:阪神)タイガースに入団した桐高初のプロ野球選手。
38年秋には開幕投手を務めるなど活躍を見せたが、応召によりプロ野球生活に幕を下ろした。
終戦後は全桐生の発足とともに入団し、主将としてチームを牽引。新川球場で行われたプロ野球東軍との試合では代打でサヨナラ打を放ち、勝利を手繰り寄せた。
全桐生ではポジションは一塁を守り、その後2度の都市対抗野球出場へと導いている。
皆川定之
青木とともに高校・プロそして全桐生と同じユニフォームでプレー。全桐生でも本職の遊撃手を務め、都市対抗野球にも出場した。
その後急映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)でプロ野球へ世界に戻ると、5年間在籍。48年途中には代理ながら監督も担った。
木暮力三
桐生中では39年夏の甲子園に出場し、その後巨人に入団した。43年には応召されチームを離れた川上哲治に代わり一塁手のレギュラーに。第9代4番打者となった。
46年にパシフィックへ移籍し一年間プレーすると、47年は一度プロからは離れ全桐生に入団し、都市対抗野球に出場した。
翌年からは名を変えた大陽ロビンスに復帰し、50年に西鉄クリッパーズ(現:埼玉西武ライオンズ)と渡り同年現役生活を終えている。
木暮英路
力三の弟で、桐生中から44年に阪急軍(現:オリックス・バファローズ)に入団し、一年間在籍した。
その後全桐生に参加すると、エースとしてマウンドからチームを牽引。46年の都市対抗野球では4試合全てに先発し、決勝で涙を飲むも最後まで力投を見せた。
50年に西鉄に入団し、プロ野球復帰を果たすとともに再び兄・力三とプレーすることに。そして同年限りで兄と共に現役を引退した。
常見茂
桐生中時代に投手として3度(39年春夏・40年春)甲子園出場し、その後は法大を経て全桐生に進む。発足時から参加し、右翼のレギュラーを務めた。
50年に28歳でプロ入りし、東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)で1シーズンプレーしたのち現役生活を終えた。
中村栄
旧制桐生中から藤倉電線を経て42年に阪急軍へ入団するも、44年に応召により退団。終戦後の全桐生の立ち上げ時から参加し、二塁手のレギュラーを担った。
全桐生解散後は50年に当時産声を上げた新球団・国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へと入団する。
初年度から全試合に出場するなど、7年間在籍するなどプロでは計9年プレー。引退後は、社会人そして還暦野球の監督として手腕を発揮した。
※「七人の名将」はこちら
三輪裕章
桐生中から阪神軍(現:阪神タイガース)に入団し2年間プレーするも、応召により退団する。
終戦後は活躍の場を全桐生に移し中堅手と投手を兼務、特に投手としてはエース・木暮英路の後を受ける役割を担った。
46年の都市対抗野球では準決勝の愛知産業戦で2回から2番手として好投し、勝利投手に。決勝へと導いた。
また、翌年の都市対抗野球でも初戦の函館太洋倶楽部戦で勝利を収めている。
斎藤宏
桐生中から全桐生に入団。名だたる選手たちが揃う全桐生の中でレギュラーとはならなかったが、縁の下の力持ちとして稲川東一郎監督やレギュラー陣を公私共に支えた。
その才能はプロ入りしてから開花する。50年に東急フライヤーズに入団すると、1年目から三塁手のレギュラーとして118試合に出場。52年には108試合に出場し、打率.301を記録するなどプロで5年間プレーした。
1945年11月25日 「職業野球東西対抗戦」全桐生vsプロ野球東軍
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
東軍 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 |
全桐生 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1x | 8 |
会場:新川球場
勝利投手:常見茂
敗戦投手:白木義一郎
本塁打 :(東)大下弘
全桐生がプロ野球チーム相手に勝利を収めたこの試合。5日前にセネタースと対戦し4−10で敗れたが、ここでプロ相手に“リベンジ”を果たした。
お互い点を取り合う接戦に。東軍が13安打を放ったのに対し、全桐生は12安打と互角の攻撃を見せた。
勝負を分けたのは守備力だった。東軍は6失策だったが、全桐生は2失策。稲川東一郎が桐中時代に鍛え上げたメンバーが中心となり、守りの差で得た勝利だった。
また、この試合でも稲川監督は知将ぶりを発揮した。状況や状態を見極めて選手交代を多く行い、代打の代打も起用した。
勝負を決めたのは代打に送り込んだ青木正一のサヨナラタイムリー。桐中・桐高を幾度となく甲子園へ導いた名将の勝負勘がここでも冴えた試合となった。
1946年8月3日〜9日「第17回都市対抗野球大会」於・後楽園球場
戦後初開催となった都市対抗野球。全桐生はその一つに名を連ねた。前年にプロ相手にも勝利したナインは、ここでも実力をいかんなく発揮。
木暮を中心に三輪が支える投手陣と、鉄壁の守りと勝負強さが光る野手陣が全国舞台で躍動した。
ただ、試合は初戦から準決勝まで全て延長戦というハードな戦いに。それでも粘り強い野球で優勝候補と目された全大阪や愛知産業といった強豪との試合を制してきた。
決勝は東京六大学の選手を多く擁した大日本土木(岐阜)に屈するも、初参加ながら準優勝という快挙を成し遂げた。
1回戦第6試合 全桐生ー全大阪
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全大阪 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
全桐生 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1x | 3 |
2回戦第3試合 全桐生ー八幡製鉄
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全桐生 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 |
八幡製鉄 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 |
準決勝第2試合 愛知産業ー全桐生
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
愛知産業 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 |
全桐生 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1x | 4 |
決勝 大日本土木(岐阜)ー全桐生
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大日本土木 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
全桐生 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1947年8月3日〜11日「第18回都市対抗野球大会」於・後楽園球場
前年準優勝の実力そのままに、後楽園の地に帰ってきた全桐生。初戦を勝利で収め駒を進めるも、次の相手は2年連続の対戦となる全大阪。
前年初戦の対戦では延長戦までもつれるなどほぼ互角の試合を演じたが、この年は1−8で敗戦。リベンジを許す形で全桐生としての最後の都市対抗野球を終えた。
1回戦第3試合 全桐生ー函館太洋倶楽部
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 |
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全桐生 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1 | 0 | 0 | 8 |
函館太洋倶楽部 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
2回戦第8試合 全桐生ー全大阪
チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全桐生 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
全大阪 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | X | 8 |