証言者①片桐且仁さん×佐藤真三さん 〜桐高OB特別対談〜

1966年(昭和41年)卒業の片桐且仁さんと、一学年下で67年(昭和42年)卒業の佐藤真三さんによる特別対談。
稲川東一郎監督の最晩年を共に過ごした先輩後輩同士で、直接指導を受けたからこそ知る“稲川野球”の魅力やエピソードを語り合った。
「選手の素質を素早く見抜く」名将たる要因
片桐:教え子はみんな監督だったり、親父さんって言ったり(笑)。野球に取り組む姿勢は本当にすごかったです。
一人ひとりの性格や野球に対する姿勢、適性を見抜く目を持っていました。
桐生高校に入ってくる選手というのは、ものすごい選手が一度に多く入ってくるわけではないです。それでも桐高の野球部を目指してみんなが来る。
どういう見方をするのかというのが、監督さんの桐生高校野球部を強くした1つの要因だと思います。選手の個々の素質を素早く見抜く力っていうのが長けていましたね。もう名監督です。
佐藤:試合前のデータ収集。これが本当にすごかった。今はデータ野球ということで発展していますが、原点は稲川さんだと私は思っていますよ。
片桐:先乗りスコアラーって今はいますよね?それを当時からやっていた。夏の大会前に全国に散らばるわけですよ。
「あの学校は甲子園に出てくると思うから、先にお前が見て行って来い」と。その頃からスコアブックを記録するだけではなくて、投手の一球一球の細かく調べてくるように指示していましたから。

佐藤:相手チームのレギュラー、1番から9番の打球方向。それを図に書いて全員に配るんですよ。今話してくださったスコアラーがデータを出して、それを1年生が全部まとめて、人数分の相手チームのデータを。
「このバッターは足が速い」「ライト方面に打つ傾向が強い」など、全部把握している。当時コピー機なんかなかったですし。考えられないですよね。
佐藤:当時は北関東代表として甲子園に行っていたのですが、栃木県代表と決勝を戦うんです。その時は下級生で優秀なスコアラーを栃木に派遣するんです。スコアブックや特徴など全て書いてきてもらって、全て一年生が手書きで人数分写してそれを基に試合に臨む。
それも書くのが一番上手い選手に担当してもらうんです。その彼が書いたものは一目で見て分かりますし、データを細く取って我々に共有してくれました。
稲川道場には学生だけでなく、全国の指導者も訪れる
片桐:遠くからきた人たちは稲川道場で寝泊まりをして学校に通う。下宿所みたいな場所でもありましたよ。
有名な監督さんでも稲川監督のところに行って、指導は仰いでいた人はたくさんいますよ。この稲川道場に来て話をして帰っていくんですよ。すごいことですよね。
高校の監督さんだけじゃなくて、大学の監督さんも教わりに来るんですから。
佐藤:池田高校の蔦(文也)監督が稲川野球が大好きだったんですよ。桐生に講演で来てくれた時に話したの稲川さんのことが多かったですよ(笑)。
片桐:埼玉では我々の時は上尾高校が強かったんですよ。野本(喜一郎)監督ね。野本さんも稲川監督の教えを受けてやってましたね。生徒だけではなくて、指導者の人たちも稲川監督に対して尊敬の眼差しで見ていたと思います。
あと私たちは、学校で練習終わってから道場に移ってやっていました。テニスボールでバッティングもやったね?
佐藤:やりましたね。あと道場から50mほど離れた河川敷があるのですが、ピッチング3組とティーバッティングができる場所もありました。

あと印象に残ってるのは冬の朝練ですね。霜柱だらけで上級生は火が当たってるんだけど、僕らは七分袖。1枚ですよ(笑)。桐高の伝統でした。
片桐:あと道場では鉄アレイとかがあるんです。器具を使わない腹筋・背筋、スクワットをたくさんやって、そこに器具を混ぜてトレーニングしていました。いやぁそれはきつかったですよ(笑)。
今の綺麗なバーベルではなく、重りのようなものを使ってやってましたね。当時、器具は野球やってる人は使ってはいけないような風潮があったけども今は普通にやっている。やっぱり先進的だったと思います。
稲川野球の基本は固い守り
佐藤:稲川監督は守備重視でしたね。当時のバットは金属ではなく木製バットなのでそうは飛ばないんですよね。ただ、ピッチャーがしっかりしていたので、守りがしっかりしていれば勝てるよと。あと先ほどのデータもありますから。
采配では積極的に仕掛けました。例えば、足の速い選手にはセーフティーバント。具体的に言うと、2アウト三塁だと相手の三塁手は定位置に下がりますよね。するとそこにセーフティーバントを決めてオールセーフにするんです。
あとはエンドランが多かったですね。右打者は逆方向にしか打たさなかったです。
周りの高校はそこまでやってなかったと思います。相手の守備隊形をどうやって崩すかとか、奇襲をかけるとかそういったことを常に稲川さんは考えていました。
守備はオーソドックスですよ。バントされた場合、ピッチャーが捕って二塁に間に合うか際どい時は絶対投げないです。確実にアウトを取りに行く。堅実でした。
片桐:いろんなサインがあって覚えるのが大変でした(笑)。緻密な野球なんですよね。稲川さんの野球と言うのは。守備の時もたくさんサインがありました。
佐藤:私が外野を守っていた時も、ランナーが三塁の時に帽子を取ってくるくる回すんです。それは稲川さんから指示で、ノーアウトもしくは1アウト三塁で帽子を回すと、ファールラインに行った打球は捕るなということなんです。タッチアップで1点取られるから。
あと、甲子園にいった時も綿密に対策を行いました。
外野にラッキーゾーンがあって、金網と柱があるわけですよ。打球が当たって少しでも場所が違うと跳ね返り方が違った。甲子園のノックからそういう練習を外野でやってました。
甲子園だけが金編みだったんで、後はフェンスなんですよ。甲子園だけの練習です。
片桐さん:甲子園の話がありましたけども、稲川監督はノックもすごく上手だった。 狙ったところに完璧に打てる。ギリギリのところに打つのが上手くてもう芸術的のようなものでした。
戦い方の原点はあの偉人から
佐藤:稲川さんはご機嫌が良い時はすごい話しかけてきました(笑)。宮本武蔵のことなど話されてましたよね?
片桐:戦方の話とかね。『宮本武蔵はこうやって戦っていた』であったり、『太陽に背中を向けて戦って勝った』など話してたよね。
佐藤:実力的に向こうが6でこちらが4でも頭を使えば逆転できる。それを言いたいわけですよ。まさに野球に通じると。
改めて思うのは、稲川さんの教え方の上手さ。すごく話が聞き取りやすいんです。
私は今指導する立場ですけども、子ども達には『人の話をちゃんと聞ける人間になるんだよ』と教えているんです。
稲川さんの説明の仕方がすごく理解しやすい、優しい教え方でした。それがすごく勉強になって今に活かされています。
片桐さん:私の人生の中で、最初に出会った”師”です。桐高に入って3年間やって徹底的に鍛えてもらいましたが、辞めずに最後までやれたのも『親父の下で3年間頑張れば』というのがあって、その思いだけでやってきました。日本一の名将ですよ。
インタビュー動画
球都桐生公式YouTubeでは、2人の対談動画の一部を配信中。ここでは「稲川ID野球」について語ってくれた。