稲川野球の証言者⑤河原井正雄(桐高OB・元青学大監督)

証言者⑤河原井正雄(桐高OB・元青学大監督)

青学大監督時代には2度の大学日本一に導いた河原井正雄さん。幼少期から「桐生高校しか考えられなかった」と考えるほど桐生高校への憧れを抱き、1970年(昭和45年)に自らの努力で実現させた。

稲川監督からは直接指導を受けることは叶わなかったが、その伝説を知る先代から多くの話を聞きただただ驚くばかりだったという。ここでは、河原井さんが聞いたという“稲川伝説”を語ってもらった。

「すごい話だなと」稲川東一郎の伝説

私は全て聞いた話なんですけども、昔紐がないグローブに紐をつけたであったり、防球ネットを張り付けたりなど当時では考えられなかったことを数々行ってきたと。

今は全国で普通にあるわけですよね防球ネットは。我々よりも2つも3つも上の発想をされていると、多くの方がおっしゃっていました。

あと分析やデータ収集においてもそうだと思います。あと私が驚いたのが、全国の高校に視察に行っていたことです。

これは松山商業で監督をされていた一色(俊作)さんから直接聞いた話なのですが、稲川さんが『もしかしたら松山商業と対戦するのではないか』と、グラウンドまで視察に来たそうなんですよ。

外野の方で見ていたと。それで不思議なんだけれども、甲子園で本当に松山商業と当たってしかも(桐高に)負けた。(※)

(※)67年春のセンバツで桐生高と松山商業高が1回戦で対戦し、4−3で桐生高がサヨナラ勝ちを収めた

「これはすごい話だな」と思ったし、そんな話をたくさん聞きました。

67年春の甲子園に向けた偵察用スコアブック

「野球界全体を考えていたと思います」

あと感じたのは、桐生だけではなく野球界全体を考えていたのではないかと。

これも甲子園でのエピソードなのですが、浪商(当時:浪華商)と桐高で対戦した時、相手に坂崎(一彦:元巨人)さんという選手がいました。

桐高は今泉(喜一郎:元大洋)さんー田辺(義三:元西鉄)さんのバッテリーで(55年春の)決勝で当たったんです。

ある回にランナー1塁で坂崎さんがライナー性の打球を打ったのですが、当たりが良すぎてヒットだと思ったのか、坂崎さんが追い越したらしいんです。ランナーを。稲川さんは3塁ベンチで見ていたわけですよ。

それで試合は延長でサヨナラ負けをするのですが、終了後に記者からランナーを追い越してアウトになったシーンを見たか聞かれたらこう言ったそうなんです。

「見たよ。それは関係ない。相手が素晴らしいホームランだった(※)」

(※)稲川監督は相手4番の坂崎に対して2打席で敬遠を指示。第3打席で勝負したが、その打席で2ラン本塁打を浴びた。

そんな言葉、自分は出るのかなと考えてみたら出ないよなと。私の中で“稲川東一郎像”がどんどん大きくなってきましたよ。

幼少時から桐高に憧れを持ち、入学へ

私は物心ついた時から桐生高校、そして稲川監督でした。実家の近くに稲川道場があって、幼少時から見ていました。

稲川道場には家にマウンドがあって、これもとんでもないことを考えたなと思うんだけれども、2部屋つなげてつくった。ピッチング練習ができるわけですよ。見ると和室で、畳もありますから。

外にはネットを張っていて、テニスボールでティーバッティングもできる。稲川道場には定時制の学生が寝泊まりをしていたので、起きたら練習をして3時半ぐらいから学校に行く生活をされていたそうです。

桐生高校が甲子園出た時はテレビにかじりついて見ていましたし、桐高以外は考えられなかったです。

「桐高で絶対やるんだ!」とそういう気持ちで野球と勉強も頑張りました。

インタビュー動画

球都桐生公式YouTubeでは、河原井正雄さんのインタビュー動画を配信中。桐生高校に入学した経緯や思い出なども語っている。