証言者②飯島彰(稲川東一郎監督時代最後の主将)

稲川東一郎監督最後の主将となった飯島彰さん。伊勢崎市で生まれ、地元で野球をやっていたが先生との縁で桐生高へ入学する。
稲川道場で下宿しながら高校生活を送り、1966年の夏に主将に就任すると67年春の甲子園に出場した。しかし、同年4月に稲川監督は急逝。関東大会を戦っていた最中に“親父”との別れを突きつけられた。
困難に当たりながらも最後まで高校野球生活を全うし、「自分の原点」と語る桐高そして稲川野球が今も脈々と繋がっている。
桐高時代は稲川道場で下宿
中学の時は地元で野球をやっていたんだけど、途中で転勤してきた先生が「お前桐高行け」と言われまして(笑)。その先生が3年生の時に稲川道場へ連れて行ってくれたんですよ。
私は伊勢崎からは通えないからその先生の繋がりのある方のところで下宿してたんだけども、途中から稲川道場に入った。他にも栃木からとか高崎から来てる人もいて、何人か道場で一緒に下宿していました。稲川さんの奥さまが食事を作ってくれてね。
みんな体大きいんですよ。本当に同い年かな?と思いましたよ。でも、キャッチボールとかランニングを一緒にやって「俺もやっていけるな」と思いました。足は一番早かったし、肩も自身があったのでね。

道場の中には鉄アレイがあって、あとバットに金属のチェーンを巻いて振ったりしてたね。「体力ないんだから力つけろ!」って。あとは下半身大事だからスクワットもたくさんやりました。
基礎体力強化は伝統です。監督に言われなくても上級生がやっていましたし、下級生はまず体力づくりからスタートだった。基本的な体力がなかったら、“バットスイング1000本やれ!”とか言われても壊れちゃう。
でも親父さんは故障者は休ませてたね。「痛かったら言え。悪化したら、野球生命が終わっちゃうから」と。
緻密な稲川野球のエピソード
親父さんは、相手によって臨機応変に作戦を立てることに長けていました。よく聞く話かもしれないですが、相手高校に偵察でスコアを書かせに選手を送っていましたよ。
ピッチャーの特徴やキャッチャーの配球や肩、主力選手の打球の方向など全部事前にチェックして頭に入れてやってました。
「決め球にはこういう球を投げてくる」「ショートは肩が強いけど暴投するかもしれないから、一塁まで真剣に走れ」などと相手チームの事前分析、これがすごかった。本当に緻密ですよ。
トーナメントで一発勝負だから、一点の重みやチャンス流れを掴むという執念は半端じゃなかった。
選手のほとんどは左で打つ練習をしていたと思います。スイッチヒッターは確か前野(和博)さんの時がきっかけで始めたんだよね。
その中で見極めるわけですよ。実際挑戦して開花した選手もいますし、(右打ち専念に)戻した人もいる。
足速い選手はいわゆる打ち逃げで内野安打狙い。それで塁出たら二盗・三盗ってさせていくんだから。みんなすぐプロに行けるような連中ではないですから。その中で勝つには戦略を緻密にしないと勝てない。なので、サインもたくさんありました。

親父さんの特に凄いところはね、1番バッターが一塁にいるでしょ。2番バッターが監督のところに行くんですよ。
「監督、ランナー出たらどうします?」って。すると「送れ。ダメだったら次にエンドランかかるから、その時は踏み込んで二塁方向に打て」と。
2番打者はそのつもりで打席入るわけですよ。最初はバントだな。それを確実に決めると、次の打席でまたランナー塁になったら「三塁にセーフティーバントしろ」とか「お前は初球打て」とか確認して必ず打席に入る。
バッターは監督のところに「どうしますか?」って聞きに行くし、監督も次を考えている。なので成功率が高いんです。
主将は監督の横で帝王学を学ぶ
親父さんは試合中そんなに怒らないけど、練習試合では怒られましたね。打たないと「伊勢崎に帰れ!」って言われましたけど、打ったら拍手(笑)。
練習の時は、「試合のつもりで気持ちを入れてやれ。試合では練習でやってきたことを試すんだ」と教えてもらいました。試合では気持ちを楽にさせてくれた。
キャプテンというのは自分の横にいさせるんですよ。なので私もいつも隣でした。野球脳を磨くために近くに置いてくれてるんです。実は私の場合、2年の時から隣にいたんですよ。
その年(1966年)の夏、1回戦が農大二高だったのですが、9回ツーアウトランナーなし。2点負けていまた。私が隣にいたら親父さんが「明日から3年分の練習やる。夏にびっちりやるから覚悟しとけ。優勝して春の甲子園行くぞ」って言ってたんです。
そしたら、代打の選手がセンター前ヒット打ってそこから1点返しましたと。さらに前野さんが打って同点。9回ツーアウトランナーなしからですよ。延長になって勝ったんです。それからトントン拍子に勝ち進んで、甲子園に行きました。
私も「親父さん、勝つと思ってました?」って聞くと、「代打で1本ヒット出たときに勝てると思ったよ。これが野球だ」って言ってましたよ(笑)。

甲子園でやってる野球と県大会でやってる野球は全く一緒。こっちはもう「あの甲子園かぁ」とか驚いてるけど、親父さんは全く違ったね。
甲子園では初戦の相手が広島商業で優勝候補ですよ。ピッチャーは山本和行(元阪神)でショートが三村(敏之:元広島)さん。確かヒット11本とか打たれながらもこに3ー1で勝った。
次は北陽でそこに10ー1で勝った。準々決勝が春優勝してる中京商(現:中京大中共)。そこに4ー2で負けたんだよね。そのまま中京が春夏連覇した。そんな大会でした。
ちなみにあの当時旅館でみんなで泊まってたんだけども、新聞記者とかみんな来るんですよ。そしたら親父さんが「俺が対応するから」と言って選手を守ってくれた。きっと選手たちが調子に乗らないように考えたんだろうね。
稲川監督の教えは社会でリーダーになっても活きる
道場にいると、山本栄一郎さん(日本初のプロ野球球団で『日本運動協会』主将、のちに巨人入り)など野球関係者が来られるんですよ。そしたら必ず私を呼んで紹介してくれるんです。「キャプテンの飯島です」と。
練習時は厳しく言われてることもありましたが、あの人の凄いは外の人に向けては絶対に教え子をけなさない。
「こいつはすごい。野球センスは抜群だし、足はチームで一番速い。キャプテンとして引っ張ってくれているんです」とか、普段と言ってること違うなぁって(笑)。終わってから、私に「人を使う時が来たら、こういうことを覚えておけ」と言ってくれました。

私は社会に出て後に専務まで行ったのですが、支店長10何人という部下を抱えてた。
お客さんやグループ会社のお偉いさんが来た時は、良いところを必ず言うようにしてけなすことは絶対にしなかった。それは稲川さんの教え、マネジメントですよ。
稲川監督が常々発していた「もっと野球を好きになれ!」
親父さんは、大会中期間中に倒れてその2日後に亡くなりました。俺たちは試合終えて帰っちゃってたからその時にはいなかったんだけどもね。
学校葬として執り行われて、私は現役のキャプテンとして弔辞を読んだんです。もう緊張し過ぎて覚えていないです。
チームに戻ってから、「これからどうすんだろう」って不安はあったんだけども、その春の関東大会は優勝できた。もうその時にはなんとか切り替えました。
親父さんの言葉で印象に残っているのはたくさんあるけど、「野球を好きになること」って言葉だね。「俺は野球大好きだけど、お前らは俺以上に野球を好きにならないと!」ってね。

「好きにならないと練習は耐えられない。一生懸命やってれば、もっと上手くなろうって言う気持ちになれる。だから野球を好きになれ!」ってことはずっと言っていた。
桐高の野球部に来るという事は、「甲子園に出たい」想いがある。すなわち野球が好きだって言うことなんだと。親父さんは怠慢プレーがあると「お前もっと野球好きになれ!、まだ野球を好きになれていないぞ」って言う。
でも、朝5時とかから日が暮れるまでやってる時は「親父さんみたいに野球好きにはなれないよ」って思ったけど、後で考えると、“ここが原点だ”と思えた。その意味は後で理解できました。