髙田勉氏コラム第16回

筆者が心に残る桐生球場での思い出ベスト3

現在、桐生市内のスポーツ施設の中心は、相生町の桐生球場(小倉クラッチスタジアム)を含む桐生市総合運動公園といえる。野球に関しては、新川球場から役目を引き継いで、1969(昭和44)年に開業した桐生球場だ。

桐生球場は、「球都桐生WEBサイト」によると、1969年に開業し、甲子園予選、プロ野球、ソフトボールリーグの試合も行われた桐生市の中心的な球場…(後略)

今回のコラムは、筆者の桐生球場に関する記憶に残る大きな出来事を三つ紹介する。

一つ目は、こけら落としの大会は第51回全国高等学校野球選手権北関東大会(1969(昭和44)年7月)だった。優勝は宇都宮学園、準優勝は高崎商業だった。

私事で誠に恐縮だが、当時私の母方の従兄弟が高崎商業高校野球部の3年生だった。筆者が野球を始めるきっかけになったのがこの従兄弟の存在で、幼稚園の頃から、従兄弟が練習している新町中学校に遊びに出かけた。

図々しい振る舞いの幼稚園児(筆者)は、嫌がる従兄弟のことはお構いなしに練習の邪魔をしながら野球を楽しんだ。私より7歳年上である。

その彼の所属する高崎商業野球部の試合にはよく応援に行き、件(くだん)の大会も、筆者は小五の時に応援に出かけたのを記憶している。残念ながら準優勝あったが、桐生球場の誕生に遭遇した出来事だ。

二つ目は、筆者が高校1年次に、昭和49年度第27回秋季関東地区高校野群馬県予選で高崎高校が優勝した球場も桐生球場だった。本コラムVol.2(桐生との因縁)において書かせていただいた、準々決勝対桐生高校との壮絶な打ち合い14-12。

準決勝シーソーゲームの対関東学園高校7-6。決勝対中央高校5-1であった。決勝の中央高校戦の優勝決定時に筆者は投手をしており、いわゆる「胴上げ投手」の幸運もゲットしている。優勝の瞬間なのに不思議と冷静だったことを記憶している。

三つ目は、1983(昭和58)年群馬県開催の第38回国民体育大会(あかぎ国体)高校野球競技のメイン会場としての桐生球場だ。筆者は当時教員2年目で、高校野球連盟の下っ端の役員として携わった。

同大会には、PL学園の桑田真澄・清原和博が1年生・横浜商業(Y校)三浦将明投手・中京高校の野中徹博投手・鈴木俊雄捕手のバッテリー…など今でも思い出される甲子園のスーパースターが揃っていた。

惜しむらくは事情により出場を辞退した池田高校だ。同校には水野雄仁投手・江上光治選手等もいた。筆者は、開始式前のあまりの混雑ぶりに、生まれて初めてヒューマンチェーンを作り、観客の混雑対応をした記憶が鮮明に残っている。

このように、我が野球人生の節目節目の大きな出来事が桐生球場でおこっている。これからも何か大きな出来事が桐生球場であるだろうか?

本年の球都桐生ウイークでも様々な取り組みやイベント等が展開されているが、ぜひとも「未来への歴史遺産」となってほしい。

今後、球都桐生プロジェクトで思い出に残る出来事と遭遇できることを期待したい。

(第17回へつづく)

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。