髙田勉氏コラム第2回

野球に係わる筆者と桐生との因縁は、遠く半世紀前の高校時代に遡る。あえて”因縁”と標題にしたのは、そのえにしが若干重いものがあるからである。

中3の中体連(1973年)で軟式野球部で県大会優勝、個人としても最優秀選手賞・打撃賞受賞という幸運に恵まれた筆者は、桐生高校からも勧誘を受けた。

結局地元の高校に進学することを決めるが、当時の心境はなんとなく「桐生高校を裏切った選手」といった心持ちだった。

高校に進学した筆者は高崎高校の部員が少ないチーム事情もあり、1年生からレギュラーで使ってもらい、例年実施している6月の一週間合宿に臨んだ。

その中盤に設定された週末練習試合で、伊勢崎東高と桐生高との変則ダブルヘッダーが行われた。第1試合の伊勢崎東高戦はなんとか勝利したが、ちょうど疲労もピークに達していた第3試合の桐生高戦ではミスが続発し、かなりお粗末な試合に。

すると当時の監督が発した言葉は「お前ら!このままで終わったら、ただじゃおかないぞ!」…ちょっと信じられない台詞だった。

合宿中であることから、いくらでも遅くまで練習できる。

「一体何が待っているんだろう…」

試合後の猛練習の先に

結局試合は、そのまま敗退。その後まずは(今では考えられないが)ウサギ跳びでダイヤモンド一周、大ウサギ(ウサギ跳びのジャンプの際伸びをする)ダイヤモンド一周・腕立て・腹筋・背筋などなど丸一日試合した後のトレーニングとしては思えない量のトレーニング…

最後にグラウンド一周タイム計測、足がけいれんして走れないような先輩も続出した。高校時代の苦しかった記憶はその出来事がトップランクのことだった。

その後約1ヶ月後に行われた「第56回全校高校野球選手権北関東大会」の代表決定戦で、奇しくも桐生高と対戦することになった。

忌まわしい合宿の思い出もあったが、思いの他のできのよい展開で5-0で勝利し、北関東大会へと出場した(結果準優勝を収めることができた)。

さらに同年の秋の大会では、準々決勝で桐生高と対戦。この試合が文字通りの壮絶な打撃戦となった。2回に両校1点ずつ得点した後、我々は3回に2点を勝ち越した。

しかし、なんとその裏の桐生高の攻撃では一挙8点を失い3-9と大きくリードを奪われた。あと1失点すると「コールド負け」までちらついたが、高崎高は5回に6点、7回に1点、8回に4点と打線が大爆発。

終わってみれば14-12で高崎勝利…。後にも先にもこんな素手の殴り合いのような試合は経験がなかった。

翌年は直接対決がなかったものの…

またまたさらに翌75年は、県大会の準々決勝にて我がチームの前に桐生高ー中央高の試合が行われていた。結果は延長13回までもつれながらも中央高が勝利。

桐生高に苦手意識がある上、中央高とは分のよかった我々は次の試合(準決勝:代表決定戦)のことばかり思い描き、目前にある樹徳高戦に対して隙ができてしまったのは否めなかった。

結果、樹徳の木村投手の好投もあり足元をすくわれ0-6と大敗してしまった。(樹徳は北関東大会準優勝)

我が高校野球を振り返ったときにいつも壁になったり、苦手な相手・いやな相手は間違いなく桐生高だった。奇しくもこのような形で球都桐生のお手伝いするとはことになり、半世紀前の自分に対して何が言えるだろうと感じる今日この頃である。

常に「目の上の…」のような重い存在、それが桐生だった。因縁を感じるが、古き良き思い出としたい。

第3回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。