桐生七人の名将

桐生は高校野球以上の全5つのカテゴリで日本一の監督を輩出しています。

稲川東一郎監督から直接教えを受けた者や、その伝説を知る野球人たちが各カテゴリで根付き、名将の地位を確立しました。

ここではその7人の名将の功績を紹介するとともに、うち4人の日本一監督が当時の思い出や歩んできた野球人生について語りました。

渡辺久信(Hisanobu Watanabe)

プロフィール

○生年月日
1965年8月2日

○経歴
前橋工業高(81年[甲]〜83年) – 西武ライオンズ(84年〜97年)- ヤクルトスワローズ(98年) – 台湾・勇士(99年〜01年)

○指導者経歴
台湾・勇士(99年〜01年)- 西武ライオンズ・埼玉西武ライオンズ(04年〜13年、24年)

小学3年から野球を始める。少年時代から桐生高校への憧れを持つも、断念し前橋工業高へと進学した。

1年夏に早くも甲子園出場を果たし、83年ドラフトでは群馬県出身選手として史上初の1位指名を受け西武に入団。以降、右の中心投手として西武黄金時代を牽引した。

監督としては08年に西武の一軍監督に就任し、前年に26年ぶりのBクラスへと沈んだチームの再建を託される。

中島裕之・栗山巧・中村剛也ら若手選手を積極的に起用するなどの采配が光り、就任一年目で日本シリーズそしてアジアシリーズを制覇した。

以降13年までの6年間で5度のAクラスへと導き、24年も5月下旬から監督代行として再び指揮を執った。

西武黄金時代を彩った“新人類”は監督としてもアジア一へ

新里町で生まれ育ち、桐生そして群馬の星として西武へ入団すると瞬く間に主力投手への階段を駆け上がる。

工藤公康らと共にファッションなどで球界に新たな風を吹き込み、“新人類”の一人として注目を浴びた。

監督としても西武を日本一そしてアジア一に導くなど、強いライオンズのDNAを後世へと継承。そんな名投手かつ名将に自身のルーツや、球都桐生に願う未来を語ってもらった。

「誰にも負けない練習量」そのルーツは桐生に

小学校3年から野球始めて、もう毎日練習してました。私が初めて見たプロ野球の試合は桐生球場で、大洋(現:DeNA)対広島の試合でした。

実は桐生高校に行きたかったんですよ。当時は木暮(洋)さん・阿久沢(毅)さんというスーパースターがいて、桐生高校の練習をよく観に行ってたんです。それで憧れがあったんですよね。

ただ、前橋工業からお誘いをいただいて、バッテリーを子どもを頃から組んでいた友達も(前橋工業に)進むということだったので、一緒に行くことになりました。

高校時代は”プロ野球”という世界が現実的に見えてきたので、そこに向かって努力する日々でした。

当然走ることもそうですし、体幹であったり基礎体力のトレーニングも毎日やっていましたので、練習量は誰にも負けなかったのではないかと思います。

あと小学生の時から一貫してそうだったのですが、マウンドの上では自分一人じゃないですか。なので、強い気持ちを持って常に上がっていました。

根性論になってしまいますが、『絶対に自分からマウンドを降りない』ことです。気持ちで投げるタイプだったので、ピンチになっても”自分が抑えるんだ”と。

チームメイトは後ろで守ってくれていますけども、自分がボールを投げないことには始まらない。

私はまず気持ちが一番だという思いで常に試合へ臨んでいました。これは引退するまで変わらなかったですね。

主力が流出も若手が台頭し、就任一年目で王座を奪還

前年が5位だったので、とにかく1年で勝負できるチームを作る思いでした。

そのオフにカブレラと和田(一浩)という中軸を打った選手が抜けてしまったので、どう穴埋めしていくかを考えると若手に期待するしかなかった。

プレッシャーを与えないように心がけていたのですが、試合を重ねていくうちにどんどん力をつけてくれました。

途中から(優勝へ)行けるのではないかという感じは持てましたけれども、ただ長いシーズン何が起こるか分からないので、油断は絶対しないようにしていました。

投手も良かったのですが、すごくいい打線ができましたよね。大きな連勝をするためには打っていかないとできないですから。

ビハインドの展開でも打線が逆転して勝ちにつなげた試合は何度もありましたし、そういうのがあって、連勝へとつながっていきました。

「勝ちたい気持ちが相手より勝った」日本シリーズ

日本シリーズは”3回負けられる”と思いました。ジャイアンツ強かったんですよ。うちのスタメン9人の年俸合わせても高い選手が何人かいましたから(笑)。

シリーズでは、守りの部分を特に考えました。流れがすぐ相手に行ってしまうので余計な点を与えられない。

ですので、使える投手を多少無理させても使いました。調子の悪い投手を引っ張って負けたら悔いが残るので、いい投手から順番に起用していきましたね。

選手は物怖じせずにやってくれました。勝ちたいという気持ちがジャイアンツより強かった。それが一番の勝因だと思います。

勝つためには大切なことが様々あります。特にゲームに入っていくまでの準備、プランニングからです。

相手と自軍の先発投手のことなどを考えながら、どういうプランでやっていくかをある程度ゲーム前にシミュレーションします。

そうすれば何か違うことが起きたときに慌てなくて済むので、とても大事になってきます。

就任一年目でリーグ優勝そして日本一の座に輝いた(©SEIBU Lions)

中村剛也には「三振はいくらしてもいい」

選手たちには「しっかり考えてやりなさい」とは常に言っていましたけども、ダメで命を取られるわけではないですから、本人たちがやりたいようにやってくれればいいと考えていました。

指揮を執るのは自分なので、そこに少しずつ作戦を織り交ぜていきましたね。

おかわり(中村剛也)は三振かホームランという感じだったので、「三振はいくらしてもいいから恐れちゃダメだよ」とは言ってました。どうせみんなするから(笑)。

三振したくないからって当てに行くようなバッティングになっていたのですが、ああいう魅力のある打者ってそうはいないからね。

当たればホームランでいいんじゃないのと。それで40本行ったら御の字なわけですから。

桐生からプロへ羽ばたいたスター候補

蛭間(拓哉)にはすごい期待してるよ!ライオンズジュニアから入ってね、地元も桐生市ですし。彼はすごく人がいいよね。

性格がいいから、みんなに愛されてる。ああいった選手は結果を出していく素養がある。

主軸を打てる可能性を持った選手だし、彼はバットコントロールと選球眼が良いのでまずは1・2番を打って、将来的にはクリーンアップを担ってほしいです。本当に楽しみにしてますよ。

球都桐生の未来に込めた願い

野球するにはお金がかかるんですけども、大事にすることによってさまざまなありがたみを学ぶことができます。

野球を通じてたくさん友達も増えてくると思いますし体も強くなると思うので、長く続けてもらって一生付き合える友達を作って欲しいです。

私の体が頑丈なのは自然豊かな桐生のおかげです。野球も盛んなまちですよね。野球に対する造詣が深いと言いますか、昔からそのイメージがありますし。

そんなまちだから野球を通じて盛り上げてほしい思いでいますし、何より”球都”っていいですよね。球の都で「球都桐生」と初めて聞いたときに、まさにその通りだなと感じました。

そのぐらい野球に関心がある土地柄ですし、いい選手も何人も出てますから。今後も野球が盛んな地区であってほしいなと願っています。

インタビュー動画

球都桐生公式YouTubeでは、渡辺久信氏のインタビュー動画を配信中。高校進学や監督就任など、ここでは載せきれないエピソードも数本にわたり公開している。

渡辺久信氏の歴史品