
桐生出身で数々の著書を執筆してきたフリージャーナリスト永井隆氏による特別寄稿。
春夏連続で甲子園に出場し特に春ではベスト4へと進出した1978年の桐生高について、その詳細が独自の視点と取材から明かされていく。
同年春では26イニング連続無失点記録という大記録を樹立したエースの木暮洋・同じく春に2試合連続本塁打を放ち、“王二世”と呼ばれた主砲の阿久沢毅。
この2人の証言や当時の文献などから『左腕の栄光』に再びスポットライトを向け、全3回に分けてお送りする。
なぜ、超高校級スラッガーの打球をセンターは好捕できたのか
それは1978年3月27日、1回戦の第三試合だった。四番打者が振り抜いた打球は、強烈なる金属音の、その音速を超えるがごとく、センター後方を襲う。巨大なスタジアムのカクテル光線を切り裂き、放物線は強い光を放ちながら伸びていく。
誰もが、長打を想像する。と、放物線の光は、一直線に背走を続ける中堅手のグラブへと収まってしまった。ビジネスでもスポーツでも、物事には“流れ”がある。特に野球は流れの競技だが、まさにこの試合の流れが変わった瞬間だった。
第50回選抜高等学校野球大会は10日間にわたり、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場で行われた。大会初日の第三試合が、群馬県立桐生高校と沖縄県立豊見城高校の対戦である。

先攻は、大会の優勝候補と目されていた豊見城。マウンドには桐生のエース、木暮洋が立っていた。前評判の高い左腕だった。
一回の表、すぐに試合は動く。ワンアウト二塁の場面、木暮が迎えたのは豊見城のエースで三番の神里昌二(卒業後、社会人野球のプリンスホテルで活躍。現在、プロ野球の横浜DeNAベイスターズで活躍中の神里和毅の父)。
神里は木暮が投じた変化球を、三塁打にし、豊見城が早々に一点を先取する。次に迎えたのが、キャッチャーで四番の石嶺和彦。大会屈指のスラッガーだった。右打者の石嶺は、卒業後は阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に進み、オールスターゲームではパリーグの四番も務める。
その石嶺が放った打球を、桐生のセンター和田真作が無駄なく落下点に背走したまま、好捕したのが冒頭のシーンである。
桐生の部員数はわずかに15人。和田は主将であり中学(桐生市立昭和中学=現在は中央中学)までは投手だった。部員数が少ないがゆえ、一人が複数のポジションを練習した。
さらに、冬場に「赤城おろし」と呼ばれる強烈な空っ風が吹く校庭でのフライ捕球を積んだ経験が、大一番でのファインプレーにつながった、ともいえよう。
木暮はいま、次のように話す。「本当に素晴らしい守備でした。和田はピッチャーもできるし、どのポジションも守れるセンスがあった。(和田の野球)人生で最高の瞬間でした」
和田のスーパープレーを境に、木暮は覚醒する。失点は初回の一点だけ。以降は最終回まで、石嶺を核とする強打の豊見城打線をゼロに抑えてしまう。快刀乱麻の投球内容を、甲子園という檜舞台で、全国に見せつける。
『群馬県高校野球史』という資料の中に、木暮の次の独白がある。
「あの憧れの甲子園のマウンドに俺は立っている。そして初回ワンアウト二塁から三塁打されて先取点を奪われた。今まで殆ど打たれたことのなかった自信を持って投げたカーブをいとも簡単にセンターオーバーされてしまった。
ついさっきまで自分が今、なにをしているのかさっぱり分からなかった。
だがあのスコアボードの「1」を見たとき思い出す言葉があった。『己の拙を覆うことなかれ』(筆者注:自分の拙い部分を隠してはいけない=正岡子規)という一節だった。
何も恐れることはない。やることはみなやってきた。打てるなら打ってもらおうと、どんなことがおころうと、このマウンド上では胸を張っていようと思い直した」
(原文のママ。出所は『桐生高校100年史・下巻』[2007年11月2日発行、編集・発行は桐生高校同窓会100年史刊行委員会、群馬県立桐生高校]より)。
どん詰まりなれど、センターオーバー
一回表の豊見城の攻撃を、桐生は最少失点に抑える。そして一回裏、俊足の一番バッター清水貴彦(左翼手)が、ライト前ヒットで出塁。
「あのヒットが大きかった」と木暮は言う。和田の好捕が流れを呼び込み、清水の一打が流れを作る。3番は一塁手の阿久沢毅。阿久沢は「とりあえず振ろう。ボールでもとにかく振る」と心に決めて左打席に入る。
神里が投じた初球は空振り。2球目、再び振るとバットにボールが当たる。「どん詰まりでした。力のない打球だった。なのに、センターを超えてワンバウンドでファンスに達し、二塁打になる。手が痺れました。ちゃんと当たってたなら、センターの中段まで行っていたでしょう」と阿久沢。
1回裏、桐生は2点を取って逆転。3回にも1点追加して、終わってみると3対1で勝利する。鮮やかな逆転だった。

「ゲームが始まり、はじめの頃は豊見城を応援する観客の方が多かったと感じました。沖縄のチームであったし、何より優勝候補でしたから。でも、優勢に試合を進めるうち、気がつくと桐高(きりたか)への応援の方が勝っていたのです」と木暮。
阿久沢はいま、次のように豊見城戦を振り返る。
「とにかく衝撃でした。石嶺君の肩の強さ、何よりスイングスピードと、今まで見たことのないレベルだったからです。それでも、あの日の木暮は、ベストの投球ができた」
「僕も木暮も、和田も、チームの全員が集中して臨めたのが、豊見城戦の勝因でした」
桐生は戦前、前評判が低かったわけではない。それでも、豊見城に大会初日で勝利したことは、いわば“ジャイアントキリング”だった。
豊見城は選抜に75年から4大会連続出場だった(夏にも76年、77年と出場)。対する桐生の選抜出場は12回目だったが、実に11年ぶりだったのだ。
豊見城を率いた監督は、体育教師の栽弘義。71年から任に就き、甲子園には春夏では6期連続出場。つまりは、甲子園を知っていた。
どこまで真実かは定かではないが、栽は体育の授業はほとんど行わずに、野球部の強化だけに全力を投じていた、と言われた。つまり、公務員である教員ではなく、あくまでも高校野球の監督という職務専門家だったのだ。
1941年生まれなので、4歳の時には沖縄戦に遭う。姉を失った上、自身も背中に傷を負ってしまう。県立糸満高校時代は高校球児であり、中京大学時代は野球部に一時籍を置く。卒業後県立高校の教員となり、野球部監督の道を開く。
甲子園で勝てなかった沖縄のチームを全国の強豪へと育てた。沖縄の高校球界の礎を築いた人物だった。
県立沖縄水産高校に転任しからは、90年、91年と二年連続して夏大会で準優勝を果たす。
桐生監督の関口信行は、英語教師だった。栽のような野球経験はなかった。監督に就いたのは72年。現役の教員が野球部監督となるのは、桐生高校では初めてだった。
桐生高校野球部と言えば、稲川東一郎監督が全国に知られていた。稲川は旧制の桐生中学だった1933年に監督就任。急逝する67年まで34年もの長期にわたり監督を務める。
現在まで桐生高校野球部は春夏合わせて甲子園出場は26回(春12回、夏14回)。このうち夏の4回(27年、30年、31年、78年)と春1回(78年)を除き、稲川は同校を都合21回甲子園に導く。春は2回準優勝、夏はベスト4が1回という堂々たる成績を残す。
桐生市浜松町に私財を投じて稲川道場を設け、合宿生活により選手を精神面も含めて鍛えた。いまでこそ、寮施設をもつ私立の野球強豪校は数多い。だが、この奔りが稲川道場だったと言えよう。

当時はまだ珍しかった対戦チームの戦力情報を収集、分析するデータを重視。緻密なデータを駆使してバントや盗塁を多用する機動力野球を、特徴としていた。
稲川は67年春、公式戦の試合中に倒れ2日後に亡くなった。このため、野球部OB(55年卒)である次男の稲川義男が急きょ、臨時監督に就任。
しかし、この67年夏の県予選で敗退してしまう。このため、やはり野球部OB(40年卒)だった中村茂が同年9月後任監督に就く。
明大の選手として東京六大学野球で首位打者もとった中村は72年春まで監督を務める。春季大会で桐生商業に一安打完封負けを喫したのを契機に退任した。
後を引き継いだのが、野球部OBではない関口だった。この時関口は33歳、58年の桐生高校卒業生でもある。
春は桐商に敗れたとは言え、72年のチームには河原井正雄(後に青山学院大学野球部監督)がいて、関口が指揮を執った夏は県大会を勝ち抜き、久々の北関東大会に出場する。
だが、準決勝で足利工業に敗れ、甲子園出場には届かなかった。その後の夏は、74年の準決勝進出が最高で、県予選を勝ち抜くことはできないでいた。
(第2回へつづく)
プロフィール
永井隆(ながい・たかし)
1958年群馬県桐生市生まれ。明治大学経営学部卒。東京タイムス記者を経て、フリージャーナリスト。企業、組織と人、最新の技術から教育問題まで、幅広く取材・執筆。
著書に『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)、『キリンを作った男』(プレジデント社・新潮文庫)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『アサヒビール30年目の逆襲』『EVウォーズ』(以上、日本経済新聞出版)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『ドキュメント 敗れざるサラリーマンたち』(講談社)など多数。