桐商元監督:堤利夫さん「渡良瀬川の水を使って土に撒いていましたよ」

かつて桐商を監督として率いた堤利夫さん。渡良瀬川を見渡す河川敷のグラウンドを始めて使用した時から率いていた。当時はまだ水も電気もなかったという時代から環境を作り上げ、群馬県の頂点にも立った。
ここでは桐商の歴史を知るからこその逸話が披露された。
就任当初は渡良瀬川でグラウンドの水撒きも
私は桐高でしたが、野球してたら大学行けないだろうってことで野球部には入らなかった。早稲田に進んだんだけども、野球は好きで同好会で友達とやっていましたよ。
桐商の監督になったのは、昭和51年(1976年)に部長をやっていたのですが、当時監督だった荻野さんが転勤になったので、引き継ぐ形で就任しました。
ただ、就任した当初はグラウンドで苦労してね。桐生大橋ができたのがきっかけで河川敷でやっていた。石はゴロゴロあってネットも張れないので満足に練習はできなかった。
グラウンドができたあとも大変でしたよ(笑)。水道はないは電気もない。 だから水を撒くのは消防署からホースもらって、渡良瀬川の水を使っていた。電気は発電機ですよ。ただ、渡良瀬川の水がどんどん遠くへ行っちゃうものだからホースが足りなくなる。やっと2年後(1978年)ぐらいかな、ネットができたのが。
02年に甲子園に出ることができたんだけど、部員が二学年で9人超えるのがやっとだった。野球ができればということで、対外試合を多くしましたね。
桐商は必ず雨でも練習試合をやるんです。雨でも流さないためにグラウンドの水はけは必ず良くして迎えていました。栃木の高校ともよく試合をしていました。栃木工・栃木商・宇都宮工とやりましたね。雨だとスライディングしても怪我しなかった。真っ黒になって帰っていましたよ(笑)。
印象に残っているのは、昔農大二高と対戦した秋の大会での準決勝。相手にヤクルトに入る忰田(かせだ)幸也がいたんです。1-1で延長に入ってノーアウトかな?で2塁打が出たんです。送ってランナー三塁。
あと一点取ればサヨナラでバッターは3番。そしたら3番を敬遠したんです。次の4番がライトに打ったんだけども、ファールを捕らなかった。わざと落球したんだよね。
それで続かずに点を取れなくて、結局1−2で負けてしまった。あれが印象に残っています。