証言者⑥福田治男(桐生市出身・元桐生第一高監督)

桐生市で生まれ育ち、高校は埼玉・上尾高校へ進学。同校へと誘ってくれたのは「稲川さんに全てを教わった」という野本喜一郎監督だった。
やがて故郷である桐生の高校を初の全国制覇へと導いた名将の血は、野本監督そして稲川監督から受け継がれたものだった。
稲川監督と野本監督の野球は「それぞれスタイルがあった」
高校野球という教育の場で活躍され、桐生から多くの野球人を輩出したのは本当に素晴らしいの一言につきます。
小中を桐生で過ごし、両親から桐生の高校野球と言えば稲川東一郎監督というのを度々耳にしていました。
祖父は桐高野球部の後援会に参加していたので「稲川監督は本当にすごい人なんだぞ」と、家族から聞いてました。
私の当時はプロ野球が巨人でON(長嶋茂雄・王貞治)の時代でね。みんなジャイアンツに憧れて野球で夢を見る世代だった。高校野球で言えば稲川監督の桐高。その強い印象は、桐生市全体で持っていたのではないでしょうか。
私は埼玉の上尾高校に進んだのですが、その時の恩師が野本喜一郎監督。
野本さんは、稲川さんが在任していた時に桐高と練習試合を重ねるなどしてお世話になったとおっしゃっていました。
そのお人柄に触れて上尾でやりたいと思いましたし、「稲川さんに(指導者としての)すべてを教えてもらった。だから桐生の子は面倒みるよ」という言葉をいただいた。
私も選手や監督として長く野球に携わっていますが、やはり野本監督の影響が大きいです。
今振り返ると、稲川さんの良いところを野本さんが活用した部分もあると思います。
野本さんがよく言われてたのは、「稲川監督の野球はとにかく勝負に徹していく」と。バントや走塁、スイッチヒッターも導入して全てを絡めて勝ちに行く野球をされていたと聞きました。
なので“稲川道場”で徹底的に鍛え上げるということもされていたと思います。
一方で野本さんはその子の素材を最大限に引き出すよりも、素材を活かして伸び伸びやらしてくれるタイプだったので、そこは違う点だったのかなと思います。
稲川監督の場合は鍛錬に加えてデータも収集して、野本さんはおおらかでシンプル。稲川さんは気さくだったそうですが、野本監督は喜怒哀楽をあまり出さない。ベンチでずっと戦況を見て武将みたいでした。
お互い本当に素晴らしい監督でしたが、それぞれのスタイルを持っていたんじゃないですかね。稲川さんも野本さんも。
インタビュー動画
球都桐生公式YouTubeでは、福田治男さんのインタビュー動画を配信中。ここでは稲川監督との関係性などについて語っている。