髙田勉氏コラム第1回

「球都桐生(きゅうときりゅう)」という言葉を耳にしたとき、どれだけの人がその意味を深く理解しているだろうか。

日本全国を見渡せば、桐生市のほかにも「球都」を標榜する都市は存在する。例えば千葉県木更津市、福井県敦賀市、愛媛県松山市などがその代表例だ。

これらの都市はいずれも、地域の中心都市であり、野球の歴史や実績において確固たる地位を築いてきた。

では、群馬県内において「桐生」は本当に「球都」と呼ぶにふさわしいのだろうか。他の都市と比較しても、その価値が認められるだけの根拠があるのだろうか。

この疑問を解き明かすべく、筆者は独自に「夏の選手権・群馬大会」のデータを検証してみた。県内を11の郡市に分類し、過去の大会におけるベスト8進出校の実績を調べたところ、次のような傾向が明らかとなった。

群馬大会の実績では常にトップ3

まず、夏の選手権・群馬大会における「ベスト8進出校」の割合を11の郡市別に調べると、次のような結果が出た。

高崎市:24.9%
前橋市:24.5%
桐生・みどり市:22.1%
太田市:6.9%
伊勢崎市・佐波郡:5.6%
館林市:4.1%
沼田市・利根:3.9%
富岡市:3.9%
藤岡市・多野郡:2.4%
渋川市:1.4%
安中市:0.3%

この数字からも、桐生は前橋・高崎に次ぐ第3の野球都市として、県内でも常に上位に位置していることがわかる。

しかし、桐生の真価は、ここからさらに深く掘り下げたときにこそ浮かび上がる。注目すべきは「甲子園出場実績」に関するデータである。

甲子園出場「49回」は県内最多

桐生市の真の実力が表れるのは、甲子園の出場回数である。以下は、桐生市内の高校ごとの出場実績だ。

桐生高校:春12回、夏14回(計26回)
桐生第一高校:春6回、夏9回(計15回)
樹徳高校:夏3回(計3回)
桐生工業高校:春2回、夏2回(計4回)
桐生商業高校:夏1回

これらを合計すると、桐生市は春20回、夏29回、合計49回の甲子園出場を誇る。

これは、前橋市36回:(春11回、夏25回)、高崎市35回(春16回、夏19回)、太田市2回(春・夏各1回)、館林市1回を大きく上回る数字である。

さらに、市内6校のうち5校が甲子園出場を経験している。これは驚くべき数字であり、前橋市(10校中4校)、高崎市(13校中4校)と比べても、突出していることがわかる。この“出場校密度”も他都市にはない特徴のひとつだ。

群馬県初の全国制覇も桐生から

加えて、「全国制覇」の実績についても触れておきたい。

1999年、桐生第一高校が第81回全国高等学校野球選手権大会で群馬県勢初の全国優勝を果たした。それまで「群馬には深紅の優勝旗は縁がない」とさえ言われていたなかで、この一勝はまさに歴史を変える瞬間だった。

この優勝が契機となり、その後の群馬県内の高校野球にも新たな目標と希望が生まれたことは間違いないだろう。桐生は、単に強豪校を輩出するだけでなく、県全体のレベル向上に貢献してきたとも言えるのではないか。

数字だけでない、「物語」があるまち

また、球都桐生を語る上で欠かせないのが、名将・稲川東一郎氏の存在である。

桐生高校を率いて24回の甲子園出場に導いたその指導哲学は、今見ても非常に先進的だ。

現在も残されているスコアブックや野球ノートは、まさに“アナログ時代のベースボール・アナリティクス”といえるもので、現代野球に通じる視点も数多く見てとれる。桐生が球都と呼ばれる背景には、こうした人物の存在も深く関わっている。

終わりに

本コラムでは、桐生と野球の関係性を、単なるデータや記録ではなく、「物語」として描いていきたい。野球が桐生に根付いた背景を、歴史的資料や地域に残るエピソード、そして筆者自身の体験や縁を通じて紹介する。

なかでも特筆すべきは、桐生の野球史を語る上で避けて通れない存在—「稲川東一郎」氏の足跡である。甲子園24回出場という県内最多記録を誇る桐生高校を率いた名将であり、球都桐生の礎を築いた人物でもある。彼の野球観や指導哲学が、どのように現在へと受け継がれているのかを紐解いていきたい。

最後に、あらかじめお断りしておくが、本稿はあくまで筆者の主観にもとづくものである。他地域の価値や誇りを否定するものではなく、あくまで「桐生らしさ」に焦点を当てた一つの視点として、ご寛容にお読みいただければ幸いである。

第2回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。