七人の名将

高校以上の全カテゴリーで日本一監督を輩出

桐生の『七人の名将』紹介

01|渡辺久信

プロ野球日本、アジア制覇監督

「怒らないから選手は伸びる」

1965年8月2日生まれ
群馬県桐生市出身/右投げ右打ち/投手

≪選手歴≫
前橋工業高校-埼玉西武ライオンズ(ドラフト1位指名)-東京ヤクルトスワローズ-嘉南年代勇士(台湾)
→プロ野球個人成績はこちら

≪監督歴≫
嘉南年代勇士(台湾)-埼玉西武ライオンズ

≪日本一エピソード≫
2008年に前任の伊東勤氏からチームを引継ぎ一軍監督に就任。1990年にはバッテリーでベストナインも受賞している伊東氏が育てたチームを渡辺久信監督が率いる形となった。就任1年目にレギュラーシーズン優勝を果たすと、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破りチームを4年ぶりの日本一に導いた。
(レギュラーシーズンと日本シリーズの優勝は1992年の森祇晶監督以来)
さらにはその後に開催されたアジアシリーズ(プロ野球アジアチャンピオン決定トーナメント)も制覇し、アジアチャンピオンに輝いた。

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球都桐生 公式youtubeでは、本インタビューの様子以外にも撮影した動画を公開中。

[日本一の名将]渡辺久信GMが語る監督就任時の心境と戦略

02|福田治男

甲子園制覇監督

「桐生の系譜で高校日本一」
「野球は守りから。基本を大事に」

1961年11月4日生まれ
群馬県桐生市出身/右投げ右打ち/内野手

≪選手歴≫
上尾高校(1979年夏の甲子園出場)-東洋大学

≪監督・コーチ歴≫
桐生第一高校-利根商業高校

≪日本一エピソード≫
東洋大学の野球部を卒業後、浦和学院のコーチを経て、1985年に桐丘高校野球部が創部(現桐生第一高校)。初代監督に就く。
1991年春の甲子園に初出場すると、1999年夏には正田樹や一場靖弘を擁し、夏の甲子園を制覇。創部から14年目で誰もが目指す甲子園の頂きにチームを導いた。
多くの選手をプロに送り込み、2019年より群馬県の利根商業で野球部監督を務める。
春の甲子園に5回、夏の甲子園に9回と計14回甲子園にチームを導いた闘将。

高校進学にあたっては、上尾高校の監督を務めていた野本喜一郎氏からの誘いで地元の桐生高校ではなく、埼玉の上尾高校に進学。
野本氏は「桐生のとうちゃん」こと稲川東一郎氏を師事する監督で、「稲川さんからすべてを教えてもらった」と語っている。その野本氏の下で野球を学んだ福田監督が日本一を掴んだことから「稲川東一郎の再来」とも言われた。

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[高校野球日本一の名将]福田監督が語る桐生第一日本一の要因 vol1

03|河原井正雄

大学日本一、アマチュア日本一監督

「激戦の東都を12回制した全員野球」

1954年7月26日生
群馬県桐生市出身/右投げ右打ち/内野手

≪選手歴≫
桐生高校(1972夏の関東大会決勝進出)-青山学院大学(1973年春季リーグ首位打者・ベストナイン/1974年春季リーグベストナイン)-本田技研

≪監督・コーチ歴≫
青山学院大学-桐生高校

≪日本一エピソード≫
本田技研で選手引退後、青山学院大学野球部コーチを経て、1987年の青山学院大学野球部監督に就任。翌年の1988年東都大学野球リーグの秋季リーグにて初優勝を飾る。
1993年には、小久保裕紀らを擁し、春季リーグを制し、その後の全日本大学野球選手権を制覇。日本一に輝く。
1996年には井口資仁、倉野信次、澤崎俊和、清水将海、らを擁し、2度目の大学日本一と全日本アマチュア野球王座決定戦で住友金属を破りアマチュア王座に上り詰めた。
その3年後の1996年、2年生エースの石川雅規が活躍し春秋連覇を果たす。
数々の実績を残し、2007年第36回日米大学野球選手権大会の日本代表監督を務め、日本チームとして初優勝。
東都リーグでの優勝は12回、大学日本一4回という輝かしい成績を残した。

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[大学野球日本一の名将]河原井正雄が語る東都リーグ初優勝と井口資仁との秘話

04|中村栄

還暦野球日本一監督

「走る野球、全員野球、気力の野球」

1923年4月24日生まれ/1998年10月29日没(享年75歳)/右投両打

≪選手歴≫
桐中-藤倉電線-阪急-三共繊維-オール桐生-国鉄スワローズ
→プロ野球個人成績はこちら

≪監督歴≫
富士重工-桐生OBクラブ

≪日本一エピソード≫
桐中時代に稲川監督から「日本一になるためには、日本一苦労しろ」をいう言葉を噛み締めながら監督業に勤しんだ。
「走る野球、全員野球、気力の野球」をモットーに戦い、群馬県還暦野球大会でV5達成。その際に監督兼選手として最優秀選手賞も獲得。
「60歳以上の老人が野球をやるんです。最後は気力の勝負。手を抜いて練習をしたって、何にもならない」と選手を容赦なく叱咤。
第一回全日本還暦軟式野球選手権大会では3打数2安打1打点の成績を収め、第二回大会では、4試合で58得点。失点は6点。投・攻・守全てが群を抜いており、決勝戦でオール岐阜を15-3で破り見事全国制覇を果たす。

05|山田

還暦野球3連覇監督

「走らない野球は野球じゃない
「勝とうと思うな。だが、決して負けてはならない」

≪日本一エピソード≫
桐生OBクラブを率い、第1回全日本還暦軟式野球大会を制覇。そこから1987年まで3連覇という偉業を達成した山田嵓監督。
第1回大会は準決勝、決勝のダブルヘッダーの中行われ、決勝は強豪の足利OB野球クラブとの対戦を1-18で制し、山田監督が敢闘賞を受賞した。
優勝時には、「足でかせぐ野球ができました。どこのチームも実力は同じだし、パワーがあるわけではないので一塁に出たら二塁へ走るという前向きの野球しかないのです。それに暑さの中では気力の勝負、本当に優勝できてよかった。」とのコメントを残している。
練習時は自信が先頭を切って走り、30人の大所帯を率いて日曜日の6半〜8時に桐生高校で練習を続けていたという。

「力を抜いて戦うようなことは相手に対して失礼。最後まで全力を尽くして戦い、相手を尊重しないといけない」という考えを持ち、どんなに楽勝ムードであっても選手を変えなかったという。
「勝とうと思うな。だが、決して負けてはいけない」
「全員で走り、プレーをする。練習でも全力を出してやらなければ意味がない」
「走らない野球は野球じゃない」
といった言葉を選手にも良く投げかけており、走ることへのこだわりやメンタル面を重視していた監督であった。

優勝時の主将である中村栄氏は、
「全国優勝の最大の功績者は山田監督。あの情熱だ。プロでもオフシーズンがあるのに、休みもなし。選手がついていったのも監督の人徳。その監督から後任を任されて困っています。厳しさの中に温かさを備えた人です」
と山田嵓監督を評している。

06|前野和博

都市対抗制覇監督

取られたら倍返し

1949年生まれ
群馬県桐生市出身

≪選手歴≫
桐生高校(1966年甲子園出場)-芝浦工大(東都リーグ最高殊勲選手賞、ベストナイン、1シーズン8勝記録)-東芝

≪監督・コーチ歴≫
東芝

≪日本一エピソード≫
1983年、東芝の監督として全国都市対応野球大会に出場。5試合で39得点という超強力打線で圧勝し優勝を飾った。

※前野和博氏のインタビュー動画、詳細は2024年5月公開予定

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07|川島勝司

都市対抗3度優勝・野球殿堂入り監督

「1点でも多く得点すれば勝つ」
「マムシ野球」

1943年4月17日生まれ
栃木県佐野市出身/右投げ右打ち/内野手

≪選手歴≫
桐生高校-中央大学(東都リーグ2度優勝、三塁手でベストナイン2度獲得)-日本楽器-河合楽器(補強選手として都市対抗出場、2年連続優秀選手獲得)

≪監督・コーチ歴≫
日本楽器-アマチュア野球世界選手権-ソウルオリンピック日本代表コーチ-アトランタオリンピック日本代表監督-トヨタ自動車監督-トヨタ自動車総監督

≪日本一エピソード≫
1972年に日本楽器の監督に就任すると1年目に都市対抗でチームを初優勝に導き、その後も1987年、1990年と都市対抗で優勝を果たした。社会人チームの監督として最多の優勝となる3度の日本一に輝く。1988年にはソウルオリンピックの日本代表チームコーチを、1996年にはアトランタオリンピックの日本代表チーム監督としてそれぞれの銀メダル獲得に大きく貢献した。
2000年からはトヨタ自動車の監督に就任し、社会人野球日本選手権で3度の優勝に導いた。
2021年にはアマチュア野球の競技力向上と指導者の育成に尽力したとして、野球殿堂入りを果たした。

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