桐生第一高・福田治男 元監督トークショー

甲子園全国制覇への道筋が明かされる!桐生第一高・福田治男 元監督トークショー

8月23日、「球都桐生歴史館」のオープンを記念して行われた各世代の名将対談。そのトップバッターを務めたのが、桐生第一高監督時代の99年に全国制覇を果たした福田治男氏です。

桐生そして群馬県初の甲子園優勝に導いた名将が、創部から描いてきた軌跡と栄光の根拠などを語りました。

冒頭に述べた当時の記憶と桐生市民への感謝

催しが行われた8月25日は奇しくも、夏の甲子園決勝が行われた日。冒頭の挨拶で、今も鮮明に覚えている当時のことを振り返しました。

「確か1999年の決勝は8月の21日だったと思います。全国制覇した時は、3回戦の静岡高校、そして準々決勝・準決勝・決勝と4日連続4連戦の試合でした。

全国制覇した時の投手が正田樹(現:ヤクルト二軍投手コーチ)。今では考えられないと思いますが、彼が1人で4日連続の四連戦を投げ抜いた。 すごい投手だったなと思います。

目標というよりも夢として臨んだ大会の中で全国制覇を達成しましたが、選手が日頃の練習の成果を発揮してくれたおかげで、そこまで到達できました。 そしてその時に感じたことが我々をサポートしてくれた関係者の皆様や、何より群馬県民。特にこの桐生市民の熱い声援をすごく感じることができました。

そういったものがすべて一体となって結果につながったと思いますので、改めてあのこの席をお借りしまして、御礼申し上げたいと思います」

「練習は向上心、試合は平常心」

福田氏は桐生第一高校の野球部が誕生した1985年、監督に就任しました。まさに0から強豪校としての歴史を築き、わずか6年後の91年春に甲子園初出場。その後夏に3度(93年・95年・98年)の出場を経て15年目にして全国の頂点に輝きました。
その軌跡をたどっていきます。

「創部当時は桐丘高校という名前でしたが、昭和60年4月に創部した当時の理事長さんが、『桐生の高校野球としては、あの木暮(洋)・阿久沢(毅)の桐高以降、甲子園に出場する機会から離れてしまっていて寂しい思いをしていると。なので、ぜひ創部するからには甲子園に出られるチームをつくりたいというのが、創部の背景でした」

甲子園に初出場した時のことを問われた福田氏。就任当初からある覚悟を持って臨んでいたと言います。

「10年というスパンを20年やって、 ダメだったら指導者の道を諦めようと考えていました。この10年間を一生懸命やろうという中で、6年目の秋ですかね。関東大会でベスト4に入って、選抜大会の出場を決めることができました。

初めて甲子園に出場させてもらったのが平成3年でしたが、以降大舞台を経験することでいろいろなことを勉強させてもらったと思います。

ステージが上がる舞台が大きくなるにつれて、選手が普段と違う動きをするとか、違う考え方をする。これまで通り普通にやってくれればというようなものもたくさん出てきました。 そういう経験を重ねる中で、『欲張った野球はやるな』と。 練習では常に向上心を持ち、試合に入ったら普段通りやろうというようなことを徹底して言っていましたね」

そして、その後も桐生そして群馬の高校野球で新たな歴史を築き、夏の甲子園にも出場を重ねます。特に全国制覇への伏線となったのが、前年にあたる98年夏でした。

それまでは“甲子園に出る”方が目標としては近い感じがしたのですが、平成10年。この年から2年連続で出るのですが、甲子園出るのが目標じゃなくて、“勝ち上がっていくこと”を目標に変わっていきました。

“優勝”ですとハードルがとてつもなく高く感じてしまうので、夢を持って、どこまで勝ち上がっていけるか。みんなで一戦一戦チャレンジしていきたい。それを積み重ねた結果がですね、頂点にたどり着いたのではないのかなと思います」

初出場の時から「試合では普段通りやろう」と言い続けていた福田氏。日々の練習において浸透させていた心構えをさらに詳しく明かしてくれました。

「勝利するというのは、日頃の練習がすべてだと思います。私が今でも高校の指導を続けている中で伝えているのは、『練習は向上心を持って、試合に入ったら平常心を持って』臨むことだと。

練習では自分にいい意味でプレッシャーをかけながら、向上していく。試合に入ったら、常に平常心で臨む。焦らない・ 力まない・そして恐れない。こういったことを選手に言っていました」

決勝戦は大量リードも「何が起きるか分からない」

そして話題は99年夏の全国制覇について。各都道府県を勝ち上がって来た全国屈指の投手たちと対戦を重ねていくことを踏まえ、福田氏も「点はそう簡単に取れないのは分かっていました」と、方針を固めていました。

「失点をとにかく防いでいく。 バッテリー中心に点を与えないように守っていこうと。 それだけだったと思います。

野球ですから本来は攻撃守備とバランスの取れたチームが一番だと思うんですけども、高校野球という負けたら終わりのトーナメントというのを考えますと、やはり失点の少ないチーム。バッテリーを中心に守りを固めて攻撃につなげていくというのが僕の中では理想にありました」

福田氏の構想通り、この大会では鉄壁の守りで勝ち上がっていった。初戦の比叡山(滋賀)に完封勝ちを果たすなど、計3試合完封勝ち・6試合で合計6失点に抑えましたが、その立役者がエースである正田投手でした。

「一回戦の比叡山の試合でほぼ完璧な試合を演じてくれた。これでおそらく自信になって、 甲子園のマウンドが投げやすく感じられて大会中は投げられたのだと思います。

僕から見て正田の球で一番良かったのは、右打者の膝元に食い込んでいくストレートですね。多くの左投手は少しシュート回転でホームベースの上に入って来るのですが、正田のは逆にカットボール気味で打者寄りに入ってくるんで、多分それが打ちづらかったのではないでしょうか」

そして決勝の岡山理大付戦。この舞台裏が明かされていきます。まずは、決勝での先発投手をどうするかを考えたと言います。

「正田が4連投になるのでとにかく心配でした。ただ、ゲーム前に本人に確認したら、『投げたいです。いけます』と言ったものですから送り出しました。2年に一場(靖弘:元楽天ほか)がいましたが、スタッフや本人たちとも相談して『ここまで来たのだから、正田で行けるとことまで行こう』という判断をしました」

1点を先制されるも直後に追いつき、7回までに14−1と大量リードの展開となります。

「もし負けたらというようなプレッシャーが逆にありました。甲子園ですから、何が起こるか分からない。やはり最後まで気を緩めないで戦っていました。これも正田を中心にバッグがノーエラーで支えてくれて守り勝った。その結果だと思います」

試合はそのまま14−1で勝利。群馬そして桐生に初めての優勝旗をもたらしました。

「桐生に戻って来た時、地元の方がみんなに喜んでいただいたというのが一番嬉しかったです。我々だけでできることではないので、本当に周囲の人たちに感謝でしたね」

桐生野球にある更なる伸びしろ

現在も利根商高野球部で指導を続けている福田氏。自身が生まれ育った桐生、そして進化を続ける球都桐生プロジェクトの今後の可能性について語りました。

「球都桐生プロジェクトを通じて桐生の野球が発展し、それがまちの発展へとつながっていくことを心から願っております。

そのために私個人の考えとしては硬式野球のチームが高校野球から先、大学野球や企業・クラブチームといったものも発展することによってさらに可能性が広がるのではないかと。

この桐生で、高校より上のレベルで日本一を目指せる目標が生まれれば、新しい夢が出てくるのではないかと思っております」

そして、特別対談はさらに続きます。大学以上のカテゴリで4人の名将が勢揃いして行われます。

各世代日本一の名将対談編へ続く