
野球の戦術を紐解いていくと、あの桐高の名将・稲川東一郎監督がかなり緻密に選手に戦術を授けていたことがわかる。稲川監督はどういった切り口で選手に野球を伝えたか?
稲川監督最後の主将である、御年75歳の飯島彰氏(桐生市両毛資源開発顧問)から、稲川監督のエピソードをお聞きした。
飯島氏は伊勢崎市出身で名和中(現伊勢崎二中)から桐生高に入学。中央大まで野球をやって、大学卒業後は群馬三菱ふそう(現三菱ふそうトラック)で勤務した。
筆者の稲川監督の印象は、「恰幅のいいおおらかな人柄の好々爺」。しかし聞くところによると、こと野球の現場に立ったら試合の流れを巧みに読み、操る。緻密かつ厳しい(激しい)指導者であったらしい。
稲川監督最後の主将が真横で聞いた言葉とは?
飯島氏が高校2年時の1966年(昭和41年)、第48回群馬大会夏の初戦である東農大二高との試合では、9回2アウトまで0-2とビハインド。ここで「万事休す」かと思いきや、代打起用に敵失そしてタイムリーで同点に追いつく。延長14回の末、桐高のサヨナラ勝ちとなった。
大会における稲川監督は試合中、ダグアウトの自席の隣に主将あるいは次期主将など、チームの要となる選手を座らせていたという。
試合の戦況や展開によって作戦の指示をこまめに行い、時には愚痴とも思える台詞を吐いた。また、ここぞというタイミングで隣席の選手を三塁コーチャーに送った。大事な1点を取るために重要な戦略の一つだ。「一番センスのいい、状況判断できる選手」を起用するのだ。
東農大二高との試合中、次期主将候補と目されていた飯島氏も監督の隣の席に座っていた。2点ビハインドで敗色濃厚になった時などは、「明日からの(新チームの)練習は、三年分みっちりやるから覚悟しておけ!」などと、次期主将に檄を含んだ言葉を吐いた。
結果逆転、サヨナラ勝ちで桐生はそのまま夏の甲子園大会へと出場したのだ。甲子園では初戦が優勝候補の広島商、二回戦は北陽(大阪)を破りベスト8まで勝ち上がった。準々決勝で敗れた中京商(現中京大中京、愛知)は史上2校目の春夏連覇を達成している。
後日、飯島氏は稲川監督に当時(東農大二戦)の心境を聞くと、「9回2アウトの代打成功で、あれで勝った!『こちらに流れが来る』東農大二は浮き足立つ」と思ったという。試合の流れを巧妙に読む才覚は見事としか言いようがない。
筆者も感じた「名将たる所以」
前述の通り、普段から稲川監督の采配は噛んで含める緻密な試合運びだ。
試合開始直後、2番打者に対して「1番打者が出塁したら、まずは3塁線にバントのファウルを転がせ。そのときの相手の内野手の動きによって、バントかバスターだ」と言い、さらに盗塁などの選択肢を事前に詳細に伝えたという。
また、事前の偵察結果を踏まえて「ショートは大変強肩だが、プレーは少々雑だ。肩に溺れて悪送球の可能性があるので、全力で一塁まで駆け抜けろ!」とも指示していた。
事前の準備を怠らず常に試合の状況を把握し、選手に迷いを与えないオプションの例示は、試合中のめまぐるしい展開のなかで巧みに伝えられることは容易ではない業だ。
時にはあまりにも手作りで細かい指示をすることから“盆栽野球”などと揶揄された側面もあったらしいが、現有戦力を見極め、「並の選手」の集団が甲子園で勝つために細かい指示を徹底する。
ここに稲川野球の真髄、緻密さ、巧みさを垣間見た。
「集めたデータを駆使し、試合を読み、緻密に、かつ大胆に選手に伝える稲川野球。」
名将たる所以だろう。
(第5回へつづく)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。