
桐商を語る上で欠かせない堤利夫 元監督の功績
続いての登場は桐生市立商業高校だ。桐生商業は、1940(昭和15)年に創立、2021(令和 3)年創立80周年を迎えた。野球部創部は1953(昭和28)年である。
今回は2002(平成14)年、第84回全国高校野球選手権(夏の甲子園)甲子園初出場時の監督・武藤賢治氏にお話を聞いた。
本コラムでは主にそのインタビューと「群馬の高校野球(1969~2018)令和3年10月27日みやま文庫発行」の武藤氏の寄稿文「”桐商”初優勝」を引用させていただいた。
武藤氏は桐生商業ー関東学園大学、民間企業を経験の後、桐生商業で臨時教員を務めた。群馬県公立教員採用試験合格後は、利根商業4年・桐生商業18年そして令和7年度から館林商工高校の商業科の教諭であり野球部の顧問である。現在54歳。
【堤監督の功績】
桐生商業野球部は永年、堤利夫監督と浅見勝興部長の監督部長コンビで指導をされており、武藤氏も2002年当時部長の渡邉忠氏(武藤氏の3年後輩)も堤門下である。
球都桐生プロジェクトの歴史サイト(桐生の高校野球)によると、堤氏は、1976(昭和51)年に桐商の監督に就任、1993(平成5)年度に富岡監督へ引き継ぐまで、実に17年という長きにわたり監督を務められた。(歴史サイトより抜粋)
「グラウンドができたあとも大変でしたよ(笑)。水道はないは電気もない。 だから水を撒くのは消防署からホースもらって、渡良瀬川の水を使っていた。電気は発電機ですよ。ただ、渡良瀬川の水がどんどん遠くへ行っちゃうものだからホースが足りなくなる。やっと2年後(1978年)ぐらいかな、ネットができたのが。」
後述するが、退職後も甲子園の留守部隊を面倒見てくださったり…武藤氏「本当に頭が上がらない存在」桐生商業野球部の生き字引のような方だ。残念ながら堤氏は2026(令和8)年1月逝去された。謹んでご冥福をお祈りしたい。
“青天の霹靂”だった母校の監督就任
【前任者の突然の異動】
武藤氏にとっては臨時教員の時代を含め、2000(平成12)年の母校・桐生商業の赴任は、二度目だった。
恩師堤監督の後任で、7年間指揮を執っていた富岡潤一氏が2001(平成13)年度末で異動…公立教員としては人事異動はやむを得ないことではあるが、野球部内ではコーチだった武藤氏は
「富岡先生の野球をもっと学んでから、次は自分が母校の監督を…まだまだ未熟で、学ばなければならないことはたくさんありました。もう少し時間が欲しかったのが本音です。」まさに青天の霹靂だった。
引き継いだチームは、富岡氏「自分が担任をしていた学年の生徒が野球部の中心で、エースの中井も担任をしていました。」と、馴染みが深く、思い入れも強い学年だったらしい。
さて、前任者から引き継いだチームは、筆者は経験上、入学してきた生徒が、「富岡先生に指導をしてほしい」という気持ちでいたのに、あてが外れた形になったのではないか?と想像していたが、武藤氏「2・3年生の『富岡監督ロス』:最後まで面倒見てもらえなかった喪失感が大きかった。」という。
奇しくも富岡前監督は、現在、武藤氏の勤務校館林商工高校の校長である。富岡氏は、高崎商業高校野球部主将として甲子園出場、桐商から異動の後、前商、高商で監督として甲子園に導いている名監督でもある。
【春季大会、センバツ出場の前橋高校を破る】
そんな状態から春季大会に突入した。チームは新米監督のもとギクシャクのスタートだったというが、春季大会4回戦の対前橋を延長の末に破った試合あたりから「少しずつチームらしくなってきた」という。
前橋は、直近の2002(平成14)年第74回選抜高校野球大会に「完全試合の松本稔監督」率いたチームである。
「烏合の衆」が「チーム」に変貌していく兆しは、武藤氏「ミーティングの際の選手の聞く姿、集中力に確かな手応えを感じてきた。」という。選手の心の中を見ている「勝負師であると同時に教育者」の眼だ。
決して順風満帆のスタートとはいえない門出だったが、いかにして夏に群馬県の頂点に突き進んだか…次号へ続く
(第31回へ続く)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。


