髙田勉氏コラム第27回

清水博史氏の手記から感じた3つの着目点

前号で触れたとおり、清水博史氏は1942(昭和18)年桐生市生まれ、広沢小ー広沢中ー桐生工業を卒業。東レに就職し、社会人野球で活躍した。

桐工の3年次、1960(昭和35)年第42回全国高校野球選手権北関東大会代表として4番ショートで出場した。

清水博史氏手記「野球に賭けた青春」~努力あるのみ~の本文を拝読したが、70頁余に及ぶ手記は、清水氏がいかに高校野球にすべてを注いでいたかを強く感じ取れたと同時に、熱い思いを感じられた。

手記の冒頭では、『自身は体格にも恵まれず、野球部では最低身長のちびっ子選手でした。「努力すれば、頑張れば、なんとかなる」そんなメッセージを子供さん達に伝えられたら本意であります。』(以下手記本文の引用箇所は『』内に記する)

この時代は、桐工の甲子園は、桐高全盛の当時の群馬県高校野球界の狭間に「割り込んだ」偶然の産物のようだが、手記を拝読すると、それは偶然や幸運でなく必然と結論づけられる。

それはなぜ…手記から読み取れるものは、①資質に優れた選手(身体能力・精神力)、②秀逸な指導者、③OB等の強力な支援による体力・技術の向上及び「打倒桐高」のマインドの醸成、の三位一体の結晶が「必然」を生んだ。以下着目点3点について触れたい。

阿部精一氏の指導が礎に

【資質に優れた選手】
入学当時は46名の新入部員、清水氏『高校一年生とは思えない高いレベル』で、自身の身長は45番目であったという。ここで筆者が着目したのは、入学当初に実施した「身体能力測定」だ。

昭和30年代前半で「遠投」「守備力」「感覚テスト」(時計の文字盤を体で示すテスト)「反射神経」「バッティング」「100m競走」と、これだけ多岐にわたる測定を実施するのは、資質に優れた選手が多数いたことも挙げられる。

それとはもとより、客観的なデータによる選手相互の自分自身のランク(今自分がどの位の位置にいるか)の確認に加え、指導者にそのデータを分析し、野球に生かせる視点や能力があったということだ。後述するように秀逸な指導者いたことがそれだ。

【秀逸な指導者】
阿部精一氏に対し清水氏『「阿部先生の指導方法」より:先生は社会科の教諭で、野球部の部長兼監督、群馬県高野連(並びに後年は日本高野連)理事でもあった。

知的・論理的に語り、その言葉の端々に人格者のそれをみたのである。「学生らしく」を常に説いていた人である。阿部氏は桐中で投手として甲子園出場(1927(昭和2年)第13回選手権)、日本大学でも投手として活躍。』

阿部氏の指導のポイントを整理すると、①学校は勉強する場所 ②赤点とったものは練習禁止 ③頭の悪い者(偏差値ではなく、(野球の)理解度、状況判断、謙虚さの劣る者は)は上手くならない ④練習内容はとにかく基本練習中心だった。

まさに学生野球憲章の前文の制定以来謳ってある「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。」この姿勢を貫いていたことである。

こうした「野球哲学」と徹底的な基本練習の繰り返し、さらに次に触れる「OB諸兄による強烈な練習の」成果で有機的な化学反応を起こし、チーム力は盤石なものになっていった。

【OB等の支援~根性路線のOB軍団~】
 阿部先生が理知的・論理的で、加えて高野連の理事等で多忙を極めていた当時、対照的にOB各位の支援(という名の選手にとっては恐怖も感じる鍛錬の様相だった)は激しさを極めた。

それというのも、現役選手の資質に甲子園の可能性があったことに阿部先生の状況が相まって、「支援」にも力が入るのも「宜(むべ)なるかな」である。

『OB軍団の練習内容・量たるや、常軌を逸していたのである。「強くしたい」並々ならぬ熱い思いがあったからである。』一人100本の個人ノック。叱咤する言葉の中には「こんなことで桐高に勝てるか!」が常套句だったそう。

『桐高を破ることは甲子園への必要条件だった。』さらにノックの後、『魔の岡公園の平和の像往復の3㎞ランニング(ペナルティ付)は恐怖であった。』ゴールの順位による勝ち抜け方式のランニングだった。繰り返しになるが、当時は「桐高全盛の時代」である。その必死さも理解できる。

以上のような「選手の資質」「秀逸な指導者」「OB等の支援」が相まって、一見遠くにあった甲子園に対する目標が「必然」といえる距離にまで縮まった。結果、第42回全国高校野球選手権は桐高を破っての北関東代表の甲子園。関係者にとっては格別の感慨であったであろう。

(第28回へ続く)

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。