髙田勉氏コラム第25回

筆者が分析する“福田采配”の勝因

【全員で優勝旗返還】
福田監督が優勝の瞬間から次のチームの課題にしたのは、「全員で優勝旗を返還しよう」だった。それを次年度のチームが見事実現、本当に素晴らしいことだ。継続的にチーム力を高めていった成果だ。

【福田監督の采配について】
筆者の私見だが、福田監督の采配を分析してみた。

福田監督の采配:福田監督の采配は、守りは、エースピッチャーを中心にしっかり固め、最小限の失点に努める。攻めは、送りバントでランナーを進める。次の打者が進塁打を、といった極めてオーソドックスな野球だ。

昨今の高校野球の投手起用は「投手保護」に立脚した側面もあり、球数を意識し「分業制」の様相を呈している。

直近の夏の甲子園((2025年の夏の甲子園 107回全国高等学校野球選手権大会)における群馬県代表、健大高崎の投手起用は当時の桐一とは対照的で、先発・中継ぎ・抑えといった分業で大会に臨んだ。

群馬大会は力のとおり勝ち抜いたが、結果甲子園では京都国際高校に初戦敗退…結果から論じるのはやや拙速だが、三番手に登板した背番号「1」が先発していたら結果はどうなっていたのかと思いを馳せる。

試合の流れを考えるとどうだったか…一発勝負のトーナメントである。負ければ終わりの勝負において、分業制採用については筆者も考えさせられる。

万全の二番手より、手負いのエースの方が良いピッチングをするケースも多々ある。本人の将来を考えれば微妙な選択だが…

一方で桐生第一の正田投手を常に先発起用した福田監督の采配はどうだったか?と対比する。青柳氏『福田監督は、こいつだと信頼した選手はとことん起用しました。投手であっても野手であっても。』ということは、徹底的に信頼できる選手達が桐一には大勢居たということだ。

当時の報道(バーチャル高校野球:朝日新聞)の第81回大会の概要には、「桐生第一は左のエース正田が、大差をつけた2回戦仙台育英戦の1イニングを除いて、6試合すべてのマウンドに立った。

1回戦の比叡山(滋賀)戦は、落差の大きいカーブとスライダーを駆使し1安打完封。3回戦の静岡戦こそ3点を失ったが、準々決勝の桐蔭学園(神奈川)は2安打完封。準決勝の樟南(鹿児島)は7安打を打たれながら要所を締めて完封。

4連投となった決勝の岡山理大付戦では1回の1失点を最後に、低めに球を集めて相手打線を抑えきった。チームの防御率は6試合で1.00と驚異的だった。」と正田投手を中心の守りの素晴らしさを絶賛していた。

攻撃に関しても、近年は送りバントを使わずに得点を積み重ねるチームが多い中、福田采配は前述の通り、着実にランナーを進める戦術だ。不思議なことに、近年、タイブレークになると送りバントを多用するチームが多く感じるのは気のせいか…

青柳氏が作成していた「甲子園出場校マニュアル」

【甲子園出場校マニュアルの作成】
以前にも触れたが、青柳氏と筆者は県高野連の先輩後輩として、ともに群馬県の高校野球の発展に注力していた同志だったが、将来的には二人で「群馬県高野連甲子園の出場校マニュアル」を作成し、特に初出場校に対して様々な対応で迷わぬよう、ガイダンスの資料を作成しようと話し合っていた。

筆者も前工の野球部長時代H8、H9と甲子園2年連続ベスト4を経験したが、とにかく忙殺された。

「日程計画作成」「本部との連絡」「宿泊施設」「輸送」「練習会場」「甲子園球場周辺」「チケットの手配」「報道対応」が、毎日怒濤のごとく繰り返される。

どのチームが甲子園に出場しても一定の予備知識を持って臨めるようにと感じたからだ。しかし県高野連としてのマニュアル作成は、筆者が県教委に転勤したことで頓挫していた。

しかしながら、青柳氏は自らの豊富な経験をもとに独自の資料、つまり上述の様々な課題に対応できるよう「マニュアルに匹敵する資料」を作成し、ご自宅に保管していた。後の桐生商業高校初出場時などは、その資料を提供する構えがあったという。

自チーム以外にも気配りができる方、群馬県高野連の大貢献者と言える存在だ。この号をもって[桐生第一高校全国制覇~頂点への道のり~]を結びたい。

第26回へ続く

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。