
全国制覇立役者の一人となった松井コーチ
【松井宏和臨時コーチ】
本コラムNo20「桐生第一高校全国制覇への道のりその2」において、”悲運の主将”と書かせていただいた松井宏和氏がふたたびの登場だ。
1999年当時松井さんは東洋大学卒業後、教職免許取得のため科目履修聴講生の身分であったが、後輩達の甲子園出場に居ても立っても居られず、大阪の友人宅に宿泊し短期アルバイトをしながら大阪に滞在していた。
青柳部長はその情報を聞きつけて急遽松井さんを桐一宿舎に呼び寄せ、『アルバイト料は出せないが、宿泊、食事は確保するから手伝ってくれ』との連絡に松井さんは二つ返事で合流。
福田治男監督のすぐ近くで、高橋正志コーチ(現在桐生市立商業の野球部監督)の補佐として粉骨砕身尽くした。
青柳氏『松井の存在は間違いなく全国制覇の大きな原動力になってくれました』
松井さんは桐一で教育実習をして教職免許取得に向かっていたが、この(臨時コーチの)功績を評価され、翌年から桐生第一高校の教員に採用される。「全国制覇」から派生し、功績を認められた「人事」という形になった。松井さんの現在は既述のとおり。
首相官邸への表敬訪問でも感じた甲子園優勝の偉大さ
【首相・知事・市長表敬・甲子園の偉大さ】
優勝ともなれば地元の関係者も黙っていない。全国制覇の報、深紅の優勝旗を持っての凱旋に対して小寺弘之知事は「県民栄誉賞ものだね」とおっしゃったそう。
県当局は初めての経験により大変な騒ぎになった。折しも当時の内閣総理大臣は群馬県選出の小渕恵三氏であり、まずは、首相官邸に表敬ならびに優勝報告を行う。
その際、首相官邸側からのリクエストによりユニフォーム着用にて対応した。
青柳部長は高校野球のルールである「球場以外でユニフォームの着用はNG」を承知で、叱られるのを覚悟であえてユニフォーム着用で表敬した。当然のようにスポーツ紙の紙面に写真付きで載った。
当時の日本高野連事務局からは群馬県高野連に対して、「近々県内で表敬などがあるだろうが、ユニフォームはまかりならぬ。文句があるなら知事でも市長でも連れてきなさい!」と大変なおかんむり状態。
とてもじゃないがユニフォーム着用はできない空気感だ。
しかし県当局は、「首相に対してユニフォーム着用ができたなら知事表敬でもできるはず」と県幹部を中心に「なんとかユニフォーム着用で知事表敬をできないか?」と打ち合わせ、…全くかみ合わない。
高野連担当課である教育委員会保健体育課も課長以下二名が同席したが、平行線。らちがあかないので、前年まで高野連事務局にいた、筆者が会議に呼ばれた。
会議に行くと「高野連と県の良識がかみ合わない。なんとかユニフォーム着用できないか?」と暗礁に乗り上げている状況。
会議に集まっている人たちは皆県幹部だが、いきなり同席した指導主事(筆者)から「申し訳ありませんが、ユニフォーム着用はしない線で協議をお願いできないか?」の発言に皆目を白黒させて、「なんだこいつは、何を言っているのか???」という雰囲気。
筆者は首相官邸表敬により、群馬県高野連は日本高野連から強い叱責並びに警告を受け、これ以上逆らうと桐一にペナルティーが課される心配がある旨を丁寧に説明。なんとか協議の方向性は落ち着いた。
そこからは、選手のユニフォーム着用は無理(結果的に選手は制服着用)にしても、「チアリーダーや応援リーダーには球場と同じ服装で」という妥協案で当日を迎えた。
余談だが、筆者の従兄弟が当時群馬トヨタの桐生支店長をしており、「もし、パレードがあると、オープンカーをトヨタ本社から手配しなければならないが、…」の問いに当方「パレードは日本高野連から禁じられていることなので、絶対にないよ」と答えたことも思い出す。
甲子園の優勝がいかに各方面に及ぶ影響力を持った偉大なことかを実感した。
(第25回へ続く)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。


