髙田勉氏コラム第21回

上位大会の壁からの脱却、県内大会連覇へ

【上位大会の壁から脱却】
1993(平成5)年度第75回選手権に出場後の桐一は2年後の第77回、全国制覇の前年1998(平成10)年である第80回選手権に出場している。

しかしながらその80回大会までの桐一野球部は県内では常勝チームで、前記の通り甲子園や関東大会には度々出場しているものの、いわゆる上位大会(関東、全国)の壁(一勝)に阻まれ続けていた。

青柳氏によると『当時のスポーツ新聞には「内弁慶の桐一」と表現をされたそう』。その「上位大会の壁」を打ち破ったのが、全国制覇をしたチームだった。

当年度である1999(平成11)年度は春季関東地区大会県予選を制すると、続く関東地区大会で2勝し、ベスト4に進出している。「内弁慶の桐一」の汚名返上だ。

ちなみに、桐一野球部は、1998(平成10)年度の夏の大会から1999(平成11)年度秋季大会まで(夏、秋、春、夏、秋と)県内大会五大会連続優勝しており、筆者の当時の印象は、「大会が終わってみれば結局桐一が優勝」の様相の群馬県高校野球界であった。

【第81回全国高校野球選手権群馬大会】
本大会の桐一は1回戦から決勝までの6試合おおよそ順調に勝ち進み、2年連続3回目の夏の選手権の切符を手にした。

投手は正田樹投手が5試合、一場靖弘投手が3試合投げ盤石の勝ちっぷりだった。

筆者は、教育委員会1年目の職員だった。高野連を所管としている担当課であることから、出場校の知事表敬(教育長、総務部長も同席)の段取りを執った。

表敬後、当時の県教育長は「教育委員会の所管は公立高校なので、私は私立高校の応援に行けません。ただし決勝まで進めばそれは別だが、…」と含みを持たせた言い方をした。

後で思えば、桐一の決勝進出(結果優勝)を暗示していたのかも、…というのは飛躍の発想か。 「内弁慶の桐一」の汚名返上した桐一野球部は、いよいよ第81回全国高校野球選手権大会に臨む。

正田投手をエースとして着々と勝ち上がる

【第81回全国高校野球選手権大会】
(1)好投手同士激突の一回戦(対比叡山):2-0
正田投手を中心に盤石の県大会を戦った桐一だった。青柳氏は『このチームはそうそう負けないだろう』と自信を深めていた桐一だったが、1回戦の対戦相手比叡山の村西哲幸投手も戦前の評価が高い投手だった。

折しも直前の高校野球の特番で、当時巨人の監督だった故長嶋茂雄氏が「こんな素晴らしい投手のいるチームの試合を是非見てみたい」などとコメントしていた。その影響もあってか「1回戦屈指の好カード」と印象づけられていた。

ただ、青柳氏は『私は100%桐一が勝つと信じていました』と語っており、終わってみれば2-0。正田投手は、1安打完封の準完全試合だった。

(2)意外な結果となった二回戦(対仙台育英):11-2
初戦を正田投手の準完全試合で勝ち上がった桐一との対戦校は、佐賀東を14-0で大勝(完封)した仙台育英だった。投手戦を予想している戦前評をよそに4回の猛攻で一挙6点、さらに6回、9回と加点し先発の正田投手を休ませることも叶った試合だった。

(3)最も苦戦を強いられた三回戦(対静岡):4-3
結果的にこの大会で最も苦戦した静岡戦。県大会を通じて初めて先制される展開に、…苦戦の原因をたずねると、青柳氏は

『桐一は二回戦まで午後日程の試合で、割り当ての練習会場もすべて試合時刻に合わせた午後だった。対照的に三回戦は、第1試合の試合日程で、(時差というべきか)選手が完全にへばってしまった』。

一方静岡は、初戦から第1試合の連続だった。また、正田投手より上だと感じた投手は静岡の高木康成投手(のち近鉄・オリックスー巨人)一人だったそう。ところが、試合のアヤというべきか、7回裏関口智久のレフトオーバー2塁打の時、高木投手が降板。

『これが試合のターニングポイント。大げさに言えば、全国制覇に向けてのターニングポイントとも言えます。』とのこと。筆者も経験があるが、甲子園のコンディショニングは難しく大変なことだ。結果、よくこの過酷なコンディションに耐えて見事初の夏の甲子園ベスト8へ。

接戦も含めあれよあれよと勝ち進む桐一の快進撃に、教育委員会の上司(担当係長)から、もし決勝に進んだ際の県教育長随行のため「準々決勝(対桐蔭学園)の結果が勝利なら、準決勝へ先乗りせよ」と指示を受ける。

(4)準々決勝(対桐蔭学園):4-0
桐蔭学園の試合は正田投手が2安打完封で、青柳氏『正田マジックがあった。』という。前の試合まで好投手相手に勝ち抜いている正田投手なので、なんとなく運も味方につけた雰囲気も感じていた。

準決勝のくじ引き結果、第2試合は樟南戦。もし第1試合だったら高崎から午前3時台発の夜行急行の心配があったが、第2試合を引いてくれた桐一に感謝した。準決勝の当日、上司である体育担当指導主監(教員籍管理職)と甲子園に向かう。

第22回へ続く

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。