髙田勉氏コラム第15回

新川食堂がつなぐ人との縁

本コラムVol.13 新川球場その4において、「すでに70年以上前に『自然発生的なボールパーク』だった。」とコメントした。

近年野球場等を中心とした「ボールパーク」という言葉を聞く。「ボールパーク」と「スタジアム」を対比すると、「ボールパーク」は、競技場(野球場)+飲食店等+エンターテイメントと考えられている。

一方「スタジアム」は競技場に特化した施設と考え、ボールパークと一線を画す。

新川球場を考えたとき、競技場(プールも含む)に加え、飲食店や商店、などが何軒か存在した。今回のコラム執筆にあたり、関係者も含め市民の声の多くに、「新川食堂」という店名を聞く。

新川球場にとって、欠くことのできない存在であったと想像し、「新川食堂」に取材のアポを取ったところ快く対応してくださった。

現在の新川食堂は、みどり市阿佐美にある。創業約90年余になる新川食堂だが、創業時は新川球場の正門の真向かいに所在した。約80年ほどそこで営業、その後3年間ほど桐生市相生町に移り、現在のみどり市阿佐美に移転し約10年経過するという。

「たいした記憶でもないけど…」と穏やかな表情の2代目の店主有坂弘さん(82歳)は語ってくださった。弘さんは二十歳の頃から厨房におり、60年あまり経過している。

傍らに奥様のやよいさんがおり、明るい雰囲気の夫婦だ。関係者の話では最盛期は「行列ができる食堂」で、加えて奥様は評判の看板娘だったという。

当時は名実ともに街の中心で、野球の試合があると店は大変繁盛していた。市内の事業所の野球チームも多数あり、大会等試合が終わると反省会等でしばしば利用されたそう。

プールや遊園地もあったり、夏祭り(現在の桐生八木節まつり)の時などは、新川球場内に三段の櫓(やぐら)を組み、地面に穴を掘り無数の各事業所のボンボリで飾り付けたという。本町通より華やかで、市内最大の飾りだったという。

また、新川食堂は桐高野球部との縁(えにし)は特に深く、稲川道場にお客様などが来たり、稲川家にはよく出前をした。

また弘さんが若い頃などは、稲川道場に住み込んでいる定時制の部員達が昼を過ぎると新川球場で練習を始め、弘さんはそれに加わりキャッチボールなどをしたという。

道場内の部員との交流もあり、年も近かったこともあって、部員達の兄貴分、よき相談相手でもあった。他の部員や顧問に相談できないデリケートな内容も時にはあったという。

稲川東一郎監督は練習が終わると毎日のようにお店にみえ、いつもの席に座り晩酌兼夕食を摂っていたという。有坂さんから見た稲川監督は、「他人の悪口を言わない人」だそうだ。

稲川氏の人となりが垣間見える。教え子達は現在でも折に触れお店に顔を出すという。

やはり「人」だ。有坂弘さんとお話ししていて、当時の部員達が「相談相手」にえらぶ人柄であることにも合点がいく。

現在のボールパークは、時には人為的な「しくみ」や「しかけ」によって成立しているところもあるが、自然発生的なボールパークである新川球場は、まさに人肌のぬくもりを感じるものだ。

たくさんの時間が経過しても人が集まる…それこそがぬくもりのボールパークだ。

(第16回へつづく)

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。