
新川球場に数多くいた“名物おじさん”
前出の「市民の球都桐生を育てた新川球場のあゆみ」(川嶋伸行氏令和6年9月10日歴史調査報告)によると、新川球場には数多くの名物おじさん…と呼ばれた人々が登場している。
今回は、その中の「グランド金ちゃん」吉野錦風さん。「住み込みの球場管理人」阿倍万作さんについてふれる。
上記報告書には、「桐高の試合がある時は、一塁側には『グランド金ちゃん』と呼ばれ、真剣に応援するおじさんがいた。吉野鮨を経営していた『吉野錦風』さんであった。」と記載されている。
同報告書「新川球場の思い出」の項である。いわゆる名物おじさん的な存在であり、「vol4教え子から見た稲川監督」で飯島氏がおっしゃっていたところでは、「監督は、吉野鮨にはよく伺っていた。」とか「桐高野球部関係の会合は必ず吉野鮨を使っていた」とかであった。有力な支援者であったことが伺える。
野球の試合は日中なので、鮨店の主な営業時間帯は夕刻以降であろうから試合を見に行くことは可能だが、「名物おじさん」の存在になることは、ほぼほぼ全試合を観戦し、時には檄を飛ばすなど、いかに桐高野球部を愛し、熱烈なファンとして応援し監督やチームを支援していたかが伺える。
裏を返せば、それほど桐高の野球や稲川東一郎監督の人となりが、魅力的であったことの証だろう。一方阿部万作氏は、住み込みの球場管理人として市民の鮮明な記憶でに残る存在だ。
前出報告書の「9 新川球場を支えた人(3)阿倍万作」の記述(抜粋):
・桐生市の主任用務員として球場管理にあたった
・大正4(1915)年5月20日、埼玉県秩父町(現秩父市)生まれ
・戦後桐生市に移住し*1、市の職員となると、新川球場内に住み込みグランドの管理
・甲子園大会では審判をするほどであった
・新川球場の後、桐生球場、南球場と球場管理の仕事を続けた
・新川球場最後の試合となったマラソン野球が終わると、グランドの土を持ち帰った
また、川嶋氏からは後日報告をいただいている。(長男賢二氏の話から)
(1)(上記 *1関連):「戦後桐生に移住し」の記載について、(阿部さんが)こどものころ、この新川プールで泳いだ経験がある」らしく、戦前から桐生に住んでいたらしい。
(2)阿部万作さんは昭和44年7月25日に桐生球場が開場すると、桐生球場に住み込みとなった。
・南球場(広沢球場)が開場すると、南球場勤務となった。
現在では住み込みで施設管理をするといった人や事例はあまり聞かない。あり得ない存在といっても過言ではない。とことん桐生市の野球場に尽くした人物「阿部万作氏」であった。
吉野氏、阿部氏の半生を振り返ると、どこか「稲川東一郎監督」と相通づる人となりを感じる。つまり、「愚直なまでにとことん尽くす人たち」だ!
そのダイナモは一体何だったのだろうか?『野球というスポーツに魅せられた』『桐生の土壌がそうさせた』『桐高の野球(稲川東一郎監督)の魅力』…こういった要素が複合的に絡み合った結果だろうか。
(第15回へつづく)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。


