髙田勉氏コラム第12回

新川球場が彩ってきた桐生そして群馬の数々スポーツ史

前回のコラムにて、新川球場におけるプロ野球東西対抗戦開催、NPB聖地・名所150選について触れたが、これに限らず新川球場(新川運動場)ではたくさんの大会を開催し、その質の評価は高かった。

前出の資料「市民の球都桐生を育てた『新川球場のあゆみ』」(令和6年9月10日)川島伸行氏桐生歴史調査報告(抜粋)によると、1945(昭和20)年11月25日(東西対抗の翌日)には稲川東一郎監督率いる「オール桐生」が、プロ野球東軍と対戦し8-7でオール桐生がサヨナラ勝利(延長12回)を納めている。

この試合をはじめ、プロ野球の公式戦等、県下陸上競技大会、サッカー大会、市民体育祭などが開催された。さらには、大相撲巡業、映画のロケ地にも選定された.。

筆者が着目したのは、高校野球大会の開催である。現在の高校野球の県大会開催の球場割り当て(メイン球場:ベスト8以上)は、春は高崎城南、夏は県営敷島(前橋)、秋は桐生で固定されているが、(第1回開催秋は昭和23年、春は昭和24年)関東地区大会(同予選)開催当初からしばらく、つまり昭和20年代~40年代の春、秋の関東地区大会県予選は固定開催ではなかった。

 「群馬県高校野球史」(昭和60年10月15日群馬県高校野球連盟編集・発行)(秋・春ともに第1回~30回のデータによると、)秋の県大会の新川球場開催は、第1回~第3回、第7回~第9回、第11回・12回、第14回、第16回~21回の計15回を数える。その他は桐生8回、前橋敷島4回、高崎城南2回、東山(太田)1回。

関東地区大会開催は第1回、第11回と第17回の3回開催。その他は第24回:桐生、第30回:前橋敷島の1回ずつである。

一方、春季県大会の新川球場開催は、第12回と第14回の2回。その他は高崎城南23回、前橋敷島4回、華蔵寺(伊勢崎)1回である。同じく新川球場の関東大会開催は、第12回の1回。その他は、敷島で第6回と第19回の2回である。

以上から、現在の球場割り当てとおおよそ同じだが、関東大会本県開催の際の新川球場の評価は非常に高い。秋は5回中の3回、春は3回中1回だが、…

関東地区大会開催となると、球場選定は当該県高野連で検討した上で、関東高野連理事会で決定する。県内のそれと比して球場の整備状況、スタンド、照明等付帯施設、入場券売り場等有料試合対応などが求められる。

また、当時の交通事情(学校自動車はほとんどなく、電車の往復を余儀なくされる)を勘案すると、公共交通機関(JR桐生駅)のアクセスにおいても新川球場が一番好条件だ。

さらに、関東連盟各都県からの注目度、評価の目は大変厳しい。特に秋の大会は、翌年の選抜高校野球大会の重要な選考資料となることから、「県内+関東高校野球連盟のお墨付き:質の高い球場」の評価を獲得した球場であるかが決定の成否を分ける。

つまり、当時(昭和20年代~30年代)県内ではトップ球場は新川球場だったと言える。桐生球場(小倉クラッチスタジアム)が昭和44年に完成したことにより、新川球場の役目は一応の区切りが着いたが、それ以前はあらゆる実績において、新川球場は抜きん出た存在だ。

(第13回へつづく)

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。