髙田勉氏コラム第11回

新川球場を語る上で欠かせない「プロ野球東西対抗戦」

新川球場の歴史を語る上で欠くことができないのが、プロ野球東西対抗戦開催である。

現在はオールスター戦として、会場地については12球団話し合いの上、主に各フランチャイズの球場を使用して華やかに開催しているが…

1945(昭和20)年、第二次世界大戦後の第1回の東西対抗戦を、なぜ新川球場で開催したのか。それにはいくつかの偶然、幸運、関係者の尽力等が折り重なった結晶だ。

折しも1945年11月といえば敗戦3ヶ月後で、日本中の要所が焼け野原になってしまい、「それ以前は東京と大阪以外では開催がなかった。戦時中、甲子園球場や後楽園球場は高射砲の基地となっており、トウモロコシなどが植えてあり」(川島伸行氏『市民の球都桐生を育てた新川球場のあゆみ』令和6年9月10日歴史調査報告中の『きりふ明治・大正・昭和第120号』から抜粋引用『プロ野球今だから話そう』)

つまり東京や大阪、前橋や高崎と違い、
①戦災を受けなかった桐生であったこと。次に、当初、神宮球場で第一戦:11月22日、第二戦:11月23日の予定だったが、第一戦予定の11月22日が雨天となったため代替え球場を模索していた。

そのため、②神宮球場は三日目の予備日の準備がなかったこと。さらに、池田豊氏(東京出身、早稲田中・大出身。大学の人脈の縁で桐生に移る。大学野球の審判、コーチ、プロ野球の監督と華やかな球歴の持ち主)の存在だ。

新川球場に第二戦を急遽決めた理由について、鈴木龍二氏(後ぼセリーグ会長)が「池田審判部長が桐生に行けば物も多少あるというので行った。

桐生は池田くんの郷里で球場もあるからね」(前述同紙、『プロ野球裏面史』)との発言にあるように、桐生市に深い縁のある池田氏に白羽の矢が立った。

つまり③NPBと桐生市をつなぐ池田豊氏の存在があったこと。

ちなみに池田豊氏は、昭和3年の第14回全国中等学校野球選手権大会に桐生中の技術指導者として登録されていた(コーチは稲川東一郎氏前述同紙より)ことから推察できるが、桐生(中)とは大変深いつながりを持っていた存在だった。前述の通り東京の出身の方だが、実際には第二のふるさとといえよう。

このように、新川球場の歴史にとっては、幸運ともいえる大きな三つの事象が相まって第二次世界大戦後第1回プロ野球東西対抗戦が見事開催された。

敢えて言わせていただけば、①と②は偶然ではなく、桐生が潜在的に持っていたもの、必然といえる。②の雨天代替えはばかりは偶然だが…

この東西対抗戦開催が、後の桐生高校をはじめとする桐生の野球の発展に大きな役割を担ったことに疑いの余地はない。

また、この開催がその後の日本のスポーツ界を今日までもリードする存在としてのプロ野球の隆盛につながったことは論をまたない。

今回触れた、新川球場の実績と「桐生市民全体の野球愛」が2022年NPB聖地・名所150選*に選定される大きな原動力になったのは言うまでもない。

*日本野球150年の歴史の中で、全国各地で日本の野球を支えてきた場所がある。かつて大声援がこだました球場。日本野球の歴史の中で、物事が動いた欠かせない重要な役割を果たした場所・跡地…。

今の日本球界の繁栄の理由は全国各地の様々なところでの出来事から生まれ、育まれました。

今回、一般の方からの公募や日本の各野球関係団体などから寄せられた多数の候補地の中から、公益財団法人野球殿堂博物館と主催者の一般社団法人日本野球機構、一般財団法人全日本野球協会で協議の上、日本全国の野球にまつわる聖地、名所を150カ所認定いたしました。:(NPB聖地・名所150選リード文)

第12回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。