髙田勉氏コラム第10回

桐生市民そして旧制桐中にとっての“新川球場”

本コラムを書き進めるにあたり、数多くのレジェンド、関係者から「新川球場(※)」の名を耳にする。本編では新川球場の設立と桐生中野球部の活躍、桐生の町の隆盛と野球との関連について触れたい。

※新川球場:(桐生市稲荷町1-1)1928(昭和3)年~1987(昭和62)、桐生市初代体育協会会長堀祐平氏が中心となり、陸上のトラック、プールなども併設した総合運動場。築60年経過し、老朽化により閉鎖。現在は「新川公園」として桐生市民の憩いの場、市のスポーツイベント、運動、レクリエーションなどの拠点。

「『新川』といったら『公園』ではなく『新川球場』のイメージが強いですね。」と小野里了一さんは語る。

小野里氏は本コラムVOL8「稲川東一郎監督を支えたもの(桐生市の力)」において、桐生市の過去の様々なデータを提供あるいはヒントを与えてくれた絶大なる協力者であり、現在桐生市史編さん室の係長職である。

少年時代と桐生市民にとっての新川球場、桐生中の活躍等を聞いた。

小野里氏の幼少の頃は、学校が終わるとランドセルを自宅においてすぐさま地域の小学校や広場に集まり、隣町の小学校と対抗戦(野球の試合)を暗くなるまで興じたという。

当時小野里少年は市立北小学校在学で、菱小学校とはよく対戦したという。時には人数を融通し合って混合チームで野球を楽しむという、大変「紳士的」な小学生の対抗戦だった。

なぜ紳士的かというと、筆者もご多分に漏れず野球少年であり、クラス仲間と隣町の小学生と野球の試合をした記憶があるが、その試合たるや…

(野球の中身は記憶がないが)、最終的には互いのジャッジにケチをつけ、けんかになって終わる、という極めて野蛮な隣人との野球の対抗戦だったからである。

このあたりからも桐生の野球に向かう紳士(真摯)な姿があったと感じられる。

また、大小の事業所が野球チームを持っておりその対抗戦、大会等が新川球場で開催されていたという。事業所毎に野球チームを編成できるとは、主に繊維工業が桐生市の隆盛を支えていたともいえる。

ちなみに昭和10年度の球場使用(体協主催)*については、軟式野球団体45回、中等学校(現在の高等学校、桐生中)野球部使用130回、高等工業学校(現在の群馬大学工学部)ラグビー練習20回、市内小学校野球戦・健康保険課主催大会等10回、桐生市体育祭他。

筆者の勝手な先入観「桐生中占有球場」ではなく、軟式野球団体が週1回くらい使用していたこともわかる。バランスよく使用をしていたことが伺える。

*令和6年9月10日川島伸行氏「市民の球都桐生を育てた新川球場のあゆみ」から引用
球都桐生の歴史を紐解く上で必ずや通るポイント「新川球場」と同時に桐生中(高)野球部の活躍とリンクする。

大きなきっかけは、桐生中が1927(昭和2)年、第13回全国中等学校優勝野球大会」に初出場すると街全体に一気に「野球熱」がヒートアップしていった。

桐生に限らず、特に地方都市においては「高校野球の甲子園出場」は街を活性化させる起爆剤としての効果は絶大である。新川球場は桐生中甲子園初出場の翌年11月に竣工している。絶好のタイミングだ。

次回では、第二次世界大戦直後のプロ野球オールスター開催など際だった大会の開催、日本野球聖地・名所150選等について触れたい。

第11回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。