永井隆『左腕の栄光』(第2回)

桐生出身で数々の著書を執筆してきたフリージャーナリスト永井隆氏による特別寄稿。

春夏連続で甲子園に出場し特に春ではベスト4へと進出した1978年の桐生高について、その詳細が独自の視点と取材から全3回にかけて明かされていく。

第2回は両者が師事した関口信行監督の野球、そしてチームがあの甲子園へとたどり着いた軌跡を辿る。

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勝つために必要な、否定と破壊と。稲川野球とは別の関口野球

木暮や阿久沢、和田らが桐生高校に入学したのは1976年4月。阿久沢は言う。

「関口先生は、野球経験はなかったものの、すごく野球を勉強していました。僕たちは先生の教えに従い、走攻守にわたり緻密な練習を重ねた。練習は厳しかったですよ。

稲川野球と関口野球とは、関係も関連もなかった。僕自身は大胡中学(現在は前橋市立)の卒業生なので、稲川さんの存在そのものを知らなかった。

入学したときには、甲子園出場は夢の世界。78年選抜に出場したときには、関口監督に率いられた初出場という気持ちでしたね。過去の出場回数とか、伝統とかという意識はまったくなかった」

つまり関口野球は、稲川野球とは一線を画していたのである。

スポーツでも企業経営でも、前任者を否定することが必要になることは必ずある。取り巻く環境が変化して、従来の手法や考え方が通用しなくなるためである。

ただし、前任(創業者や中興の祖も含め)が偉大なほどに、否定や破壊は困難となるだろう。だが、やらなければならないケースはある。過去の成功体験から抜けられず、つまりは変わることが出来ずに、沈んでいった企業やスポーツチームは後を絶たない。

筆者の手元に、関口が56年3月11日発行の桐高新聞に発表した「“世論の結集を目指して”」という文章がある。(『高校人脈 桐高編』[編集・毎日新聞社前橋支局、1977年1月15日発行]に収録されている)。その一部が次だ。

「頽(たい)廃的な自由の中で講堂集会の如き憐れむべき伝統がこのまま育てられるならば、恐らく、数年を待たずして桐生高校はエゴのルツボと化すであろうと思われます。僕はまず第一に、この古い伝統の破壊から出発しなければならないと思います。

そこで僕は、その打開策の一つとして「世論の結集」を提案します。(中略)

僕は現在自分の無力を恐れながらも僕の理想を力いっぱい追求しております。皆さんの御協力を心から期待しながら遠くない将来には必ず新しい伝統が築かれることを信じているのです」(カッコは筆者)。

関口監督との思い出話も披露された

前例踏襲ではない、改革者としての気概が高校時代に執筆した文章から読み取れるが、関口は生徒会長も経験している。

関口体制の5年目が始まろうとしていた76年、入部した阿久沢は中学時代は県大会優勝投手だった。桐生・相生(あいおい)中出身の木暮は5月に入ってから入部する。高校で野球をやる自信を、当初は持てなかったためだった。

「中学の優勝投手が入ったのだから、強くなる」。周囲の桐生高校野球部への期待は高まった。だが、甲子園は別世界であり、“部活”としての高校野球の域のなかで野球部は活動していた。

全国のどこにでもいる普通高校のチームが、飛び抜けていくのは77年の春から夏にかけて。栃木や千葉の有力チームと練習試合を重ねたところ、勝ちを拾えるようになったから。投手として、打者としての木暮、阿久沢の成長が原動力だった。

桐生には、全国で闘えるレベルの左腕が2枚、同じ人物として左の強打者が2枚、揃いつつあったのだ。阿久沢は言う。

「関口先生の野球は、合理的に『出来ることをやれ』というスタイルでした。捕れるボールを捕れ、打てるボールを打て、と。このせいか、僕たちのチームはミスが少なかった」

秋季大会を前に主砲が予想外の骨折。それでも進学校チームが勝ち上がった理由

 77年夏の県予選は準々決勝で木暮が崩れ、高崎高校に敗退する。こうして夏大会は終わり、新チームがスタートする。
 主将になった和田は「甲子園を目指すぞ!」と訴えた。新チームは2年生と1年生を合わせても15人。ベンチ入りが許される15人と同数だった(当時)。

ところがだ、春選抜に向けた秋季県大会が始まる直前、アクシデントがチームを襲う。バント練習の最中に、ファーストの守備についていた阿久沢が、右手に投球を受けて骨折してしまうのだ。

「これが大変だったんです」と木暮は打ち明ける。15人いる部員のうち、4人はほとんど試合には出場しない選手だったから。阿久沢の怪我により、チームは10人で戦わなければならなくなる。

迎えた県大会、桐生は苦戦しながらも勝ち上がり、決勝では松本稔投手を抱する前橋高校に2対0で勝利。実に11年ぶりの秋季県大会優勝を果たす。出場できない阿久沢は、ずっとランナーコーチを務めた。

阿久沢は、「試合に僕は出られなかったわけですが、県大会のあの期間は、木暮洋が投手として出来上がった1カ月間だと思います。最初はひょろひょろしながら勝ち上がるのですが、投球もメンタルも強くなっていった」と指摘する。

木暮氏の成長をベンチから感じていた阿久沢氏

77年関東大会は開催が群馬県のため、群馬からは桐生、前橋、富岡の三校の出場が決まる。大会が始まる直前、チームに福音が訪れる。怪我がほぼ癒えた阿久沢が復帰したのだ。

県大会優勝の桐生は準々決勝から出場し、山梨県の塩山商業に14対0で大勝。次の準決勝は、群馬県立敷島公園野球場(上毛新聞敷島球場)にて千葉県立印旛高校との対戦に。延長14回の末、1対2で桐生は敗れる。

延長に入ってから、阿久沢がマウンドで一時投球練習を行う。筆者は「代わる可能性があったのですか」と尋ねると、「あれは牽制ですよ。印旛を惑わすための」と阿久沢。

桐生には、木暮、阿久沢という左腕投手の二枚看板が共存していて、対戦相手は投手交代も視野に入れなければならなかった。カーブと右打者の懐を抉るクロスファイアーの木暮、一方の阿久沢はいかにも重い剛球を特徴としていた。

準決勝のもう一試合は、前橋が埼玉県立川口工業に7対1で勝利。決勝は印旛と前橋が対戦し、3対0で印旛が優勝する。

大会の結果、桐生が翌78年の選抜に出場できるのかどうかが、微妙となる。

東京都を除く関東からの出場枠は3校。それまで同じ県から2校が出場した前例はなかった。印旛の出場は決定的だった。が、もう2校はどうなるのか。

桐生は秋季県大会決勝で前橋を下している。しかも、関東大会の準決勝では印旛に敗れたものの、14回に及ぶ延長戦の末にだった。だが、決勝に残ったのは前橋である。

桐生と前橋の、どちらが選ばれるのか。

「関東大会が終わってから、(選抜に)出場できるのか否か、僕は考え続けた」

繊細で緻密に、物事を捉えるタイプの木暮は、今このように振り返る。一方の阿久沢は言う。

「何も考えませんでした。そもそも、選抜にどうすれば出場できるのか、僕は知らなかった」

ホームラン打者の大らかな人柄が滲み出る。木暮が「彼(阿久沢)は、よく言えば大らか、別の表現を使えばガサツなんです」と指摘すると、阿久沢は反論するでもなく隣でニコニコと受け入れていた。

2人の熱戦の記憶を引き出す筆者

木暮の緻密さと、阿久沢の大らかさとが、交錯しながら混ざり合っていたのは、チームの特性だったろう。

では、「チーム内はみな仲が良かったのか」と筆者が水を向けると、阿久沢は答えた。「良くはなかった。特に、とある2人はしょっちゅう、言い合ってました。僕らは、放ってましたけど」。

監督が徹底して内部統制する類いのチームではなかった。どこにでもある、牧歌的な気風を持つごく普通のチームだった。

最終回へつづく

プロフィール

永井隆(ながい・たかし)
1958年群馬県生まれ。明治大学経営学部卒。東京タイムス記者を経て、フリージャーナリスト。企業、組織と人、最新の技術から教育問題まで、幅広く取材・執筆。

著書に『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)、『キリンを作った男』(プレジデント社・新潮文庫)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『アサヒビール30年目の逆襲』『EVウォーズ』(以上、日本経済新聞出版)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『ドキュメント 敗れざるサラリーマンたち』(講談社)など多数。