桐生タイムス復刻記事5 60年前の甲子園決勝 稲川野球に学ぶもの 勝つために真剣に創意工夫する(2015年9月9日)

桐生タイムス復刻記事5 60年前の甲子園決勝 稲川野球に学ぶもの 勝つために真剣に創意工夫する(2015年9月9日)

桐高黄金世代4選手・座談会

あれから60年。稲川監督が果たせなかった県勢の全国制覇は、1999年夏に桐生第一が、2013年夏に前橋育英が達成した 。

最近では健大高崎が、盗塁やバントを多用した機動力野球で甲子園をわかせている 。  

「走塁やバントでかき回す野球は、オヤジ (稲川監督) が先駆者。その徹底ぶりは今の健大どころじゃなかったよ」 (今泉)、「ヒットが出なくても、相手の守備をかき回して逆転するのが得意だった。とにかく練習したからね」 (田辺)

一塁に一歩近いという理由で、右打ちの選手を左打ちに転向させるのを好んだ稲川監督。スイッチヒッター育成の先駆者とも言われるほか、筋トレをいち早く導入したことでも知られる。

「新川球場に大きな石があって、練習後によく上げ下げして鍛えた」(小柴)、「筋トレなんてどこもやってない時代。ひと冬やり続けたら場外ホームランを打てて驚いた記憶がある」 (今泉)

自宅を練習場に改築した稲川道場ができたのもこのころだ。「部屋の中でピンポン玉を打たせたり、すべてのトレーニングに工夫があった」 (山口)、「当時の練習は質も量も、プロ以上だったと思う」(田辺)

先進的で独創的な練習の成果を甲子園で発揮した当時の桐高。甲子園準優勝世代だけでも、今泉(大洋)、田辺(西鉄)、小柴(日立製作所)、山口(西鉄-広島)、間所宏全(阪急)、下山輝夫(大映)ら、卒業後すぐにプロや社会人に進む選手を多く輩出した。

同世代の中には、野球とは違う世界で能力を発揮した人も。今泉・田辺と同期の金井進二は俳優の道に進み、助監督を務めた映画「南極物語」 (1983年)で高倉健と共演するなど活躍した 。  

いまの桐生球児たちが稲川野球から学ぶべきものは―。「勝つために自分は何をすべきか、一人ひとりが真剣に創意工夫する」。そんな姿勢が大切だと4人は口をそろえる 。  

練習量なら現代っ子も負けてはいない。が、知らずのうちに漫然と練習をこなしてはいないか。だれにでもチャンスは来る。が、それをつかむ準備はできているか。ぜひ自問自答してほしいという。

「自分で試行錯誤することが力になる。うまくなろうとする意欲が一番大切」 (田辺)、「やらされる練習に意味はない。目的意識をもって練習してほしい」 (今泉)。そう熱っぽくエールを送りつつ、球都桐生の後輩球児たちが甲子園で躍動する日を心待ちにしている 。  

(敬称略、完)

この連載は小針厚記者が担当しました 。

【60年前の甲子園決勝】

昭和30年(1955年)春の甲子園決勝で、桐高は浪商(現大体大浪商)と戦い、桐高の稲川東一郎監督は前夜、浪商の強打者・坂崎一彦選手の全打席敬遠四球を指示。

桐高は4打席敬遠したものの唯一勝負した打席で本塁打され惜敗した。エースの今泉喜一郎さん(78)、主将で捕手の田辺義三さん(78)、1学年下で野手の小柴輝夫さん(77)、山口恵一さん(77)が当時を振り返る。

資料協力:桐生タイムス

取材を受ける桐高の稲川監督。勝つために試行錯誤を重ね、独創的な指導で注目された (甲子園球場で。写真提供・小柴さん)