桐生タイムス復刻記事4 60年前の甲子園決勝 雪辱果たし大舞台へ 修学旅行中の3年生急きょ応援に(2015年9月8日)

桐生タイムス復刻記事4 60年前の甲子園決勝 雪辱果たし大舞台へ 修学旅行中の3年生急きょ応援に(2015年9月8日)

桐高黄金世代4選手・座談会

甲子園決勝に至るまでの道のりは、決して平たんなものではなかった 。  

今泉、田辺、小柴らは前年夏の県大会を制したものの、北関東大会決勝で水戸一(茨城)に敗れ、甲子園目前で涙をのんだ 。  

実は今泉はこの試合、高熱でフラフラだった。「あの悔しさがあったから、夏の猛練習にも耐えられた。絶対に甲子園に行く。そういう強い気持ちになった」 (今泉) 。  

秋の県大会を制して臨んだ関東大会初戦の相手は再び水戸一。延長十回日没引き分け再試合の末に3-2で雪辱を果たす 。

準決勝は九回裏、2点差をひっくり返す劇的な逆転サヨナラ勝ち。夏に悔しい思いをした選手の奮闘でそのまま関東大会を制し、念願の甲子園切符を勝ちとった。

甲子園入りしてからも、初戦の天理(奈良)に大苦戦。0-0で迎えた九回裏、小柴のサヨナラ打で辛くも勝ち上がった 。

決勝戦では思わぬ偶然で心強い味方を得る。関西を修学旅行中の桐高3年生約300人超が、急きょ予定変更して甲子園に駆け付けてくれたのだ 。  

「修学旅行がちょうどぶつかった。あれはうれしかった」 (今泉)、「同級生がみんな応援に来てくれた。共通の思い出。今でも感謝しています」(田辺)

準優勝旗を携えて帰郷したときの地元の歓迎ぶりは今でも語り草だ。

「トラックの荷台に乗って、まちなかをパレードしたのを覚えている。恥ずかしかった」(今泉)、「すごい盛り上がりだった。コロムビア・ローズから全員が花束をもらったのを覚えている」 (小柴) 。  

今泉は大洋(現DeNA)、田辺は西鉄(現埼玉西武)、浪商の坂崎は巨人と、翌春そろってプロ入りした同級生3人。引退後はほとんど交流がないまま、昨年1月に坂崎の訃報が届く 。

坂崎は生前、「桐生との選抜決勝は、いまでも鮮やかに映像のようによみがえってくる。あのホームランは高校時代を通じて一番の思い出だ」と語っていた。  

もし、この場に坂崎がいたら―。「話をするとしたら、やっぱりあのホームランだろうね」と今泉。

田辺も「今思えば近めを攻めたらよかった(笑)。生きているうちに一緒に振り返りたかったな」と語る 。  

(つづく、敬称略)

【60年前の甲子園決勝】

昭和30年(1955年)春の甲子園決勝で、桐高は浪商(現大体大浪商)と戦い、桐高の稲川東一郎監督は前夜、浪商の強打者・坂崎一彦選手の全打席敬遠四球を指示。

桐高は4打席敬遠したものの唯一勝負した打席で本塁打され惜敗した。エースの今泉喜一郎さん(78)、主将で捕手の田辺義三さん(78)、1学年下で野手の小柴輝夫さん(77)、山口恵一さん(77)が当時を振り返る。

資料協力:桐生タイムス

修学旅行で駆けつけた桐高3年生が見守る中、準優勝旗を手に行進する桐高ナイン(甲子園球場で。写真提供・小柴さん) 。