桐生タイムス復刻記事2 60年前の甲子園決勝 稲川監督、前夜に紙を張り出し「無死満塁でも敬遠」(2015年9月4日)

桐生タイムス復刻記事2 60年前の甲子園決勝 稲川監督、前夜に紙を張り出し「無死満塁でも敬遠」(2015年9月4日)

桐高黄金世代4選手・座談会

高校野球100年の今年。甲子園決勝前日の8月19日付の本紙に、60年前の甲子園決勝で桐生高校が繰り広げた名勝負の記事を掲載した 。

桐高バッテリーが”大明神”と恐れられた相手スラッガーを連続敬遠しながら1度だけ勝負し、本塁打を浴びて惜敗した伝説の試合だ 。

バッテリーを組んだ今泉喜一郎さん (78) と田辺義三さん (78)に、1学年下の小柴輝夫さん (77) と山口慶一さん (77)を加えた桐高黄金時代の4人が60年ぶりに再会。

知られざる名勝負の裏側を語った座談会の様子を5回連載で紹介する。

桐高と浪商 (現大体大浪商、大阪) が対戦した昭和30年 (1955年) 春の甲子園決勝戦 。

浪商の4番は、のちにプロ野球の巨人で長嶋茂雄・王貞治とクリーンアップを組んだ超高校級スラッガー坂崎一彦 (1938~2014年) だった 。   

「あの大会の浪商は毎試合、坂崎が打って勝ち上がってきたんだよな」(田辺)。「そうだった、そうだった」(一同)。

準決勝までの坂崎の打撃成績は14打数8安打、打率5割7分1厘、8打点。当たりに当たっていた。

名将と呼ばれた桐高の稲川東一郎監督 (1905~67年) は決勝前夜のミーティングで、「坂崎大明神」と大書した紙を張り出し、坂崎の全打席敬遠を桐高ナインに指示したといわれる 。

その伝説に間違いはないか。

「そうそう、そのミーティングは本当にあった」 (田辺)、「前夜の宿舎に紙を張ったんだよな」 (今泉)、「でかいの1枚。『あしたの試合はすべて坂崎を歩かせろ』って」 (田辺)。

「全員聞いてたからね」 (小柴) 。当時を振り返りながら、一同は懐かしそうに笑った 。 

一方、稲川監督は坂崎を「大明神」ではなく「出羽守 (でわのかみ)」と呼ぶこともあったという 。

理由は不明だが、「オヤジ (稲川監督) は宮本武蔵の兵法書を読んでいて歴史に詳しかった。その関係かも」 (山口) と推測する 。   

たしかに「坂崎出羽守」は江戸初期の武将として実在する。宇喜多氏の一族で徳川家康に仕えて大名となり、大阪城落城時に千姫 (家康の孫娘) を救い出したという逸話が残る 。   

「デワノカミとかダイミョウジンとか、(稲川監督は坂崎敬遠を) ワーワー言うとったよ」 (田辺) 。

坂崎にさえ打たれなければ初優勝できる。さわらぬ神にたたりなし-。そんな心境だっただろうと一同は推測している 。   

と、ここで思わぬ裏話が浮上。ミーティング中に監督に質問した選手がいた 。   

「無死満塁で坂崎が出てきたらどうしますかって、田辺さんが聞いたんです。すると監督は『当然歩かせるんだよ。1点で済むじゃねえか』って」 (小柴) 。   

「やるなら徹底してやる。そういう人なんだよ、オヤジは。その通り (全打席敬遠) してたら、あるいは桐高が優勝してたかもしれないね」。

そう首をすくめながら苦笑いする田辺の言葉に、一同は顔を見合わせて大笑いした 。   

(つづく、敬称略)    

資料協力:桐生タイムス

【出席者紹介】

今泉喜一郎 (いまいずみ・きいちろう)

1937年生まれ。桐生市川内町出身、菱町在住。エース兼4番打者で55年の甲子園に春夏連続出場。準々決勝の明星 (大阪) 戦で無安打無得点試合を達成。卒業後は野手に転向してプロ野球の大洋 (現DeNA) で活躍した 。   

田辺義三 (たなべ・よしぞう)

1937年生まれ。足利市小俣町出身・在住。主将で強肩強打の捕手として55年の甲子園に春夏連続出場。全日本高校選抜にもなった。卒業後はプロ野球の西鉄 (現埼玉西武) に入団。新人で日本シリーズに出場するなど活躍した 。   

小柴輝夫 (こしば・てるお)

1938年生まれ。桐生市東出身、相生町在住。俊足好打の野手として55年春夏、56年春と甲子園に3季連続出場。56年春は主将として準優勝旗を返還した。卒業後はプロ野球の誘いを断り社会人野球・日立製作所で活躍した 。   

山口慶一 (やまぐち・けいいち)

1938年生まれ。みどり市・大間々町大間々出身・在住。強打の野手として桐高黄金時代を支え、56年春の甲子園に出場。卒業後はプロ野球・西鉄と広島で活躍。広島ではウエスタンリーグで本塁打・打点の2冠王に輝いた 。  

久しぶりの再会で思い出話に花を咲かせた4人 (左から小柴さん、今泉さん、田辺さん、山口さん。みどり市大間々町の豊田館で) 。