松本稔監督が語る「ライバルとして見た桐高」と「監督として見た桐高」

桐生高の野球部で指揮を執っているのが松本稔監督。県立前橋高時代は対戦相手として桐高と幾度となく対戦を重ね、木暮洋・阿久沢毅の両名を擁した黄金期のライバルとして君臨した。
激戦を制して甲子園のマウンドにも立ち、1978年の第50回選抜大会では初戦の比叡山高(滋賀)で完全試合を達成。甲子園では史上初の快挙であり、現在でも2人しか達成されていない。
しのぎを削った最大のライバルを率いる立場となり、これまでの印象深い試合や現役時代の思い出を振り返った。
現役時代は木暮・阿久沢の黄金期の対戦相手に
桐高の監督になった経緯というのは、教員をしておりますので異動でこちらにお世話になったことが最初です。校長先生から直々に依頼をいただいたので、やろうということになりました。
高校時代に何度も対戦したあの伝統ある桐高、しかも監督をやることになったのですから少なからずプレッシャーはあります。同級生で(桐高の)野球部OBからも『頼むよ!』という連絡はもらいましたよ。
みなさん『強い野球部をつくってほしい』という期待もあるかと思うので、私が持っているものを還元できれば、少しでも野球部の役に立てるのかなという気持ちがありました。
OB会のみなさんからも熱さを感じます。新年会や夏の大会前には激励会を開いてくださって、多くの方が来てくれるんです。
桐高とは練習試合を何度もやりましたし、私たちの代でも公式戦で当たったわけですけれどもあのやはり木暮(洋)君・阿久沢(毅)君を始めとしたとても能力・評判の高い選手がいました。
投手の心境としては、クリーンアップまで抑えるとほっとするじゃないですか。それで下位打線では少しエネルギーを温存したいなんて思いながら投げるんですけれども、私たちの代の桐高は下位打線でも打たれてしまうんです。
それが当時の桐高の強さだったと思いますね。 “球都”と言われる野球どころじゃないですか。 なので、みんな野球をよく知っていると感じていました。体は大きくなくても巧みさがある。 それが強さの要因だったように思いますね。
就任後の忘れられない試合
22年から監督を務めていますが、負けた試合がすごく印象に残ってしまいます。
桐高に来て最初の春の大会が終わってから正式に監督になったのですが、すぐに夏の大会が来ました。 それで地元の桐生球場(小倉クラッチ・スタジアム)で高崎経済大附との対戦でした。
1−1で延長に入ったのですが、まだタイブレークがなかった時でしたが11回表に4点とったんですよ。これで勝てたかなと思ったら、裏に5点入れられてしまい逆転サヨナラ負けとなってしまいました。
平野(蒼也)君が一回からずっと投げてましたから疲れも来てたでしょうし、最後は投手を交代しましたけども押し出しでサヨナラとなってしまいました。
監督として私に責任があるので、『勝たせてあげられなくて悪かったね』とその時は一言だけ伝えたと思います。
今年も大会が始まりますが当然優勝を目指してやっていますし、その前提で高校野球をやらないといけないです。
桐高で野球をやるということは進学もしたいし、野球も頑張りたい生徒だと思います。私も両立させなければならないという想いがあります。
簡単なことではないのですが、勉強もさることながら野球偏差値も高い部員になってもらいたいです。