桐生西高校野球部 初代マネージャー 小林朱美さん

野球部初代マネージャー 小林朱美さん「机のフィルムを剥がすところから始まりました」

1980年の開校と共に入学し、初代野球部マネージャーを務めた小林朱美さん。

野球部一期生としても船出を飾り、初得点や初勝利の喜びを味わいながら新たなページをゼロから刻んでいった。そんな3年間の日々を振り返ってもらった。

「ボールの糸は3人とも縫えました」

桐生西高校のマネージャーになったのは元々野球が好きで、監督さんからマネージャーを募集してると言う話を聞いたのがきっかけです。

同じ中学校でソフトボール部だった友達が一緒に高校へ進んだのですが、ソフト部がなかったので「野球部のマネージャーやりたいね」と言う話をして2人でしていました。

あともう1人、いつも電車で一緒に通っていた友達と3人で「じゃあマネージャーになろう!」ということになりました。

部員の人数は仮入部の段階で20人いたんですけれども、入部してから減っていって最終的には10人。校庭が途中までしかできてなくて、その端は崖のような感じでした(笑)

最初はバックネットもない状態だったので、ネットもない状態で練習していましたから。

道具は最小限のバットとボールは学校で購入してもらったんですけども、特にボールについては練習で使えるボールが2ダースなので24個。毎日練習が終わると、数を数えて足りないと川の中草の中を探しに行きました(笑)。

川まで行っちゃうこともあって、水に長い間浸かっていると重くなってもう使えないとかもありましたし。

あとは使い込んでいくと糸が切れていくことがあるので、3人とも縫えましたよ。なので、マネージャーが1番仕事してたと思います。

あと部員が少なかったのでキャッチボールをしていてもボールが逸れれば取りに行くとか、トスバッティングでは投手の後に2人・打者が空振りするとボールが逸れるので、もう1人ついていました。

なのでマネージャーもグローブを持って練習に参加していたので、1番走り回っていましたよ(笑)。

監督にはすごく良くしてもらいました。きっと監督の意識の中で「(マネージャーの)3人がいなかったら、練習は成り立たなかった」というのがあったのだと思います。

監督は試合の時にバットがきれいに並んでいるかといった、道具が使いやすい状態に置かれているかをとても気にされていました。私たち3人も選手たちがプレーに集中できるようにと、そこは注意してやっていましたね。

練習は遅くまでありましたし、 3人電車で通学していたので、遅くなると心配して家まで送ってくださいました。

当時の思い出を振り返った

創部初、練習試合での思い出

初めての練習試合はボロ負けしたのを覚えています。1点取れた時は大騒ぎでした(笑)。

公式戦の時は野球部だけだと10人でしたので、陸上部の何人に助っ人としてベンチに入ってもらいました。試合会場は桐生球場だったのを覚えています。

最初は一人未経験の選手もいましたが、みんなどこかしらのポジションで試合に出れるという意識があったと思います。

だけど下級生が入ってきてライバル意識が芽生えたり、その中でも上手い選手が入ってきたりするので、“勝ちたい”とか“レギュラー獲りたい”という競争意識が次第に強まっていきました。

チームの雰囲気はみんな仲良かったし、和気あいあいとしてました。当時としては珍しいかもしれないですが、先輩後輩の上下関係がない。なので楽しかったんじゃないかと思いますけどね。

目標は、まずは公式戦一勝。でも、みんな甲子園を目指していましたよ。3年の時には野球チームとしての試合ができるになっていましたから。

そうは言いつつも1年目から練習試合では勝っていた印象があります。いろんな学校に行っていました。実は前橋育英とも練習試合やってるんですよ。遠征でバスで行ったの覚えています。行くだけで舞い上がってました(笑)。

スコアでは時に監督の難しい要求も

マネージャーですと、公式戦の際は私たちが3年生の時の1年生が入ったので、その子たちがベンチに入ってくれました。それまでは私がベンチに入ってスコアラーを務めました。

野球の盛んな地域で育ったので物心ついた時から身近にあって、用語や試合の流れといったのは知っていました。

マネージャーになっていざスコアをつけようとなった時、監督から3人で指導受けたんですけどもそれが面白くて面白くて。

だから要求もどんどん増えるんですよ(笑)。じゃあ球種も変えてコースも変えてと覚えるのが精一杯だった。2人は無理!ってなったんですけども、私はできたので大会にもベンチに入れてもらいました。

ストレートと変化球を区別して、さらにインコースだったらこっち・アウトコースだったらあっち・上に外れたらこう書くっていう感じで(笑)。カーブだったら△、ストレートだったら⚪︎などと書いていました。

監督の方針で、マネージャーは2年ごとに採用となっていました。3年が引退する前に1年生が入ればいいと思ってたそうです。

書き方は一応教えましたけども、私たちが教えられる期間って4月から引退する夏までの数ヶ月と短いので、その後どこまでできるなったかはわからないです(笑)。

統合しても変わらない「桐西の卒業生」

実は私にとって実は清桜高校野球部はすごく身近なんです。確かに西高とは雰囲気が違うと思いますが、息子2人が桐南野球部出身なので、両方にゆかりがあります。

(桐西が)閉校と聞いた時は寂しかったですね…。桐南の皆さんも同じだと思うのですが、特に私は開校の時に入学しましたから。

入学式の日はまだ体育館ができていなくて桐生の市民体育館でした。学校に入って自分のクラスに入ると、自分の机に貼ってあるフィルムを剥がすところから高校生活が始まったんです。

川沿いに桜の木を植えたり、校庭がまだ完成してない時にも芋煮会をやったりなど1期生でしか経験してないことがすごくたくさんあった。

時代の流れもありますが、これからも桐西の卒業生として何も変わらずにいられると思います。