桐生南高校 初代主将 千喜良務さん

硬式野球部 初代主将 千喜良務さん 抱いた志は「硬式野球部を自分でつくる」

桐生南高校は元々は軟式野球部だった。その強豪として全国大会にも出場したが、1977年に硬式野球部としてリスタートを切った。

それを牽引したのが、硬式野球部でのちに初代主将を務めた千喜良勉さんだった。

「硬式野球部を立ち上げたい」という想いを入学時から抱き、それを実現。軟式から残ったのが3名というスタートだったが、自ら奔走して公式戦を戦えるまでに導いて行った。

軟式野球では全国大会に進むも、硬式野球部で残ったのは3名に

私が入った時は軟式でやっていまして、どんな感じだったかというと、 普段の練習にはほとんど先輩たちいないんですね。

それで大会の2週間ほど前になると、部員が増えてそれで練習をしてなおかつ群馬県の軟式野球の決勝まで行くような、そんなチームだったんです。なので、元々先輩方もある程度野球の素質がある人たちが集まっていました。

私が入った時も県大会では決勝の常連校だったので、同窓会の方から『軟式で成績も残しているから、硬式に変えたらどうだ?』と声をかけていただいたと聞いています。

ちなみに硬式野球部が立ち上がる直前に軟式で最後に全国大会へ行ったので、『軟式で全国行ったから硬式に変わったんだね』という認識でいらっしゃる方も多いと聞きます。

実は硬式に変わる準備がもうできていたタイミングでの大会で、幸い北関東大会が桐生で開催されたときでした。

当時県代表は2チーム出られるということで県大会では準優勝だったのですが、その北関東大会で優勝してそれで全国大会への切符をものにしたというような流れでした。

当時軟式の部員が10名ぐらいいたんですけれども、硬式に変わった時点で残ったのがわずか3名でした。 その3名を中心にして、あと2年生・1年生は私が学校の休み時間に教室へ行って勧誘していましたね。

硬式野球部の最初がその3名に、今高崎中央ポニーで監督をしている倉俣(徹:元巨人軍野球振興部長)さんなど8人ほどだったと思います。 新1年生が入ってきてギリギリ公式戦に出られるような状況でした。

当時は目標を掲げられるような力はなく、練習試合をしてくれた学校も少なかったです。ただ、川嶋金蔵監督が大間々高校から赴任して来られた縁もあって、よく練習試合をしてもらっていました。

硬式野球部になることで「学校全体が一つになった」

秋の段階で9人以上は揃っていましたが、高野連に加盟して半年間は公式戦に出られない規定があったので秋季大会は出場していないです。なので、一番最初の公式戦は(1978年)第60回大会の群馬県予選でした。

硬式に変わると、同窓会や桐南の生徒たちからの応援の仕方が変わりました。軟式の時はやっぱり大会があっても生徒や友人が応援に来る人数もまばらでしたけれども、 第60回選手権の群馬県予選では、応援してくれる方たちがたくさん来てくれて、学校全体が一つになるような形になりました。

それはやはり軟式から硬式に変わった大きな出来事だと思います。

あとは硬式野球の変化として一番大きく感じた出来事があって、ちょうどあの60回大会の時は桐高(桐生高)が木暮(洋)選手や阿久沢(毅)選手で甲子園に出た時でした。

当時私は桐生駅での出陣式に行きましたけれども、桐生駅の北口ロータリーが人のいる場所がないぐらいいっぱいに集まっていて、選手たちを送り出した光景は今でも頭に残っています。

一方、我々が軟式野球で全国大会へと旅立った時は関係者の人たちがいたくらいでしたので、『軟式と硬式でここまで違いがあるのか』いうことを痛感していました。

なので自分たちも『硬式に変わって頑張るんだ!』 というような気持ちも新たに持つことができました。ただ、初めての公式戦で当たったのが大間々高校でした。何かの縁だったんでしょうね。

私は夏の大会前に少しコンディションを悪くしていて、先発はできませんでした。1年生が先発して2番手も1年生。最後に私が投げたんですけども、結果的には確か5−6と一点差で負けてしまったと思います。

でも後から振り返るといい思い出です。桐南自体は廃校になってしまいましたけれども、“桐生南高校 硬式野球部の第一戦”というのはずっと残りますから。

桐生の野球に新たな1ページを刻んだ

思い出深い“桐南のグラウンド”

実は硬式野球部を立ち上げることを高校入学後の1つの目標にしていました。

桐南へ入るにあたって、硬式がない学校であることは認識していたのですが、私の中で気になっていました。『だったら、硬式野球部を自分でつくるんだ』っていうね、どこかにそういう気持ちがありましたよ。

それが幸い具現化することができたわけですが、それは自分1人でできることでもないですし、先輩たちの軟式野球部での実績や同窓会たちのサポート、そういった条件が整ってできたことです。

グラウンドでの一番の思い出はやっぱりグラウンド整備ですかね。硬式だと本当に石ころ1つ落ちてないグラウンドでプレーさせてもらいました。 内野にところどころあの芝が残っていたのですが、それを自分たちで全部取り除いたりして、そういった思い出が一番強いですね。

私がやっていた時はライトの裏に梅林があって、そこに打球が行かないように柔道部の古くなった畳をもらって壁代わりにして外野に張っていました。近隣住民に迷惑がかかってはまずいので、小さいネットを作ってもらったりもしました。

あとは軟式のボールと硬式のボールでは値段もそうですけども寿命も違いますから、あのほつれた糸を自分で補修したりをやった記憶もありますよ。どこの学校の生徒もいたと思うけども授業中にね(笑)。

練習では、基本を忠実にしてキャッチボールから大事にすることを考えて取り組んでいました。

ただ、みんな軟式野球の延長で硬式野球を始めているので、『硬式の練習ってどんなことをやるのかな?』などと言って、近くの樹徳高校のグラウンドへこっそり行って、どんな練習しているか観察したこともありました。

“公立高校の雄”の礎に

私は高校を卒業してからはすぐに地元の金融機関に就職しました。母校が気になっていたので、時間があれば後輩たちの顔を見に行ってノックを打たせてもらっていました。

その後は荻原先生が桐南の監督になった時、荻原先生の同期生からOB会を立ち上げる話をもらいまして、会長という役職をいただきました。そこからさらに桐南とのつながりが深くなっていきましたね。

後輩たちが活躍した時代もありますし、一時は“公立高校の雄”と言われた時代もありました。

我々の時は甲子園を目指すというような目標は正直言って持てませんでしたが、以降桐南に入ってくる後輩たちが硬式野球をできる環境づくりができたのは、達成感を1つ味わえた思いがあります。

今は桐西と統合しましたが、野球部は桐南を指導してくれた森山弘さんが監督として現場を仕切っているということで、我々桐南OBとしても応援していますよ。