1960年甲子園出場メンバー 石川和孝さん「桐高と同じことやってたら勝てない」

1960年に桐工が甲子園に出場した時のメンバーで、監督も務めた石川和孝さん。稲川東一郎監督が率いていた桐高に勝つべく猛練習を積んだ。
同年の北関東大会決勝では宇都宮で行われた桐高との“桐生対決”を制し、念願の甲子園への切符を掴んだのだった。ここでは当時の色褪せない思い出と共に、球都桐生に寄せる想いも語った。
「打倒桐高」を掲げ猛練習に
野球と出会ったのは、小学生の時でまだ自分のグローブもなかった時だったので、小学校のグラウンドで三角ベースをやっていましたよ。まだ、子ども会のようなチームもなかった時でしたし、近所で集まってやっていた気がします。
それで中学行って野球部に入って、高校は桐工に進みました。うちはね染屋、染色業をやっていたんですよ。私は長男だし、後継ぎだからということで。
野球部入ったら、他校の仲間がたくさん来てて一学年70人いましたよ。ただ、それで辞めたりなどして最後に残ったのは14名だったけどね。目標は当然甲子園。我々も一年から目指していました。
でも、当時は昭和30年(55年)かな。桐高が全国的に強かった。この年は今泉(喜一郎)・田辺(義三)のバッテリーで選抜準優勝したので。まぁもっと前の(旧制)桐中の時代からずっと強かった。
要するに桐高に勝たなければ甲子園に行けない。桐生だけじゃなくて、群馬県の高校は皆“打倒桐高”を掲げていましたから。入学してからもOBと一丸になってね、それはきつい練習が始まりましたよ。『桐高と同じことやってたら勝てない』ってね。
OBの人たちが来て、つきっきりでランニングやらノックやらバッティングやら、練習試合もやりましたし。

甲子園にはいずれも下手投げの投手がエースに
当時は攻撃重視のチームではありましたが、あと投手では同級生に前原昭一郎という選手がいたんだけども、彼は下手投げでね。その前に甲子園行ったのが14年前で島津(四郎)さんという先輩。
島津さんは全日本でもずいぶん有名な選手になったんだけど、同じく下手投げ。2回とも甲子園に出た時は投手が2人とも下手投げでした。
それは当時の阿部精一先生。 阿部先生は桐中で投手をやってたんですよね。 それでつきっきりで指導されていました。
甲子園に出た時(60年)は北関東大会だったので宇都宮球場でやったんだけども、桐高との桐生対決でね。桐生からもたくさんのファンが来てくれました。大方の予想では桐高だったけども、勝って甲子園に行くことができた。
とにかく嬉しかったですよ。当時は両毛線で宇都宮から桐生に戻って、パレードをやってもらいました。
甲子園では初戦に大宮高と当たったんだけども、隣県だから春先に練習試合をしているんですよ。まさかここで当たるとは思わなかったんだけども、0−0でいい試合をしてね。でも延長で1点取られて負けました。

球都桐生に感じる「みんな根っからの野球好き」
桐生のみんな根っからの野球好きだから、みんなが力入れてやっているよね。これからも“球都”として盛り上げていってほしい。
壮年から熟年、還暦や古希さらには80歳ぐらいまでね野球やっている人がたくさんいますから。私も今83歳ですが、75歳くらいまで野球やっていましたよ。
野球を通じて得られたことといえば、人とのつながりが多くなっていったことではないでしょうか。
群馬県高校野球OB連盟の役員もやっていたので、東京や神奈川・埼玉といったOBの方たちとの交流もありました。私の人生は野球だね。野球やってきたから元気でいられるわけだから。