桐生タイムス復刻記事『都市対抗へ発進 めざすは「黒獅子旗」』

桐生タイムス復刻記事『都市対抗へ発進 めざすは「黒獅子旗」』

新川球場で練習を行う全桐生(昭和23年ごろ)

国鉄スワローズの発足(昭和25年)に参加して7年在籍、戦前の阪急を含めれば十年間のプロ球歴をもつ中村栄だが、野球との出会いは、故郷の松井田を離れ、桐中へ進んでからである。

新入生恒例の運動部見学で、中村は、稲川のノックを受ける野球部の練習に、ひときわ小柄な選手を見つけた。

走ることには自信があっても上背に多少の不安を抱えていたところ、この選手は小さくとも堂々として、右に左に、なんなくボールをさばいている。「なんだ、おれにもできそうだ」と、中村は素直にそう思ったという。

簡単な球さばきとは、実は野球のセンスそのものである。この選手こそ全国中学でもトップレベルの遊撃手、皆川定之であった。

やがて中村は、練習するほどに遠のいていく皆川のレベルに戸惑うことになるが、他人の実力を見抜いて「怖さ」「すごさ」を感じるのは成長の証だ。

皆川の守備の素晴らしさを本当の意味で知ったとき、中村もまた、一流選手の仲間入りを果たしていたのである。

もとが不器用な中村は、教えられた基本を粘り強く身につけた稲川野球の見本のような選手だ。それに比べて皆川は、どちらかと言えば天才肌である。

そしてもう一人、やはり天才肌であっても、皆川の華麗さとは似ても似つかぬ豪快さでならしたのが、セネタースで活躍した大塚鶴雄だった。

その派手なプレーを稲川は決してよしとはしなかったが、そこに秘められたパワーは、まぎれもなく稲川野球で開花したものであった。

では、改めて新生「全桐生」の布陣を紹介しておこう。

まずは内野、地元ファンをうならせた鉄壁のラインである。三塁大塚、遊撃手皆川、二塁中村。

主将は青木正一。甲子園準優勝投手として期待されプロ入りをしたが、彼が入団した当時のタイガースには、打倒巨人のために避けて通れぬ難関があった。豪速球投手沢村栄治の攻略である。

その沢村対策の練習で、青木の肩は酷使され、つぶれた 。 通算 四勝二敗は無念の戦績である。一塁手。

主戦投手は木暮英路、右の本格派だ。控え投手の三輪裕章は普段は中堅をつとめ、左翼には池田力、右翼を常見茂が守る。捕手は稲川豪一。以上レギュラーはすべて桐中勢である。

控え選手に斎藤宏、早川忠夫、そして佐復良一と下瀬正雄の桐工組。またマネージャーに増山利夫が名をつらねた。

これは1946年(昭和21年)8月の第17回都市対抗野球大会に出場した顔触れの列挙だが、デビュー戦を終えて間もなく、ほぼこのメンバーで固定したと、青木はいう。

プロに復帰した木暮力三や明大に進学した常見茂、高鉄管理部に入った新井展夫(のちに日大)と、それぞれの道へ進まねばならない選手たちもいたが、大半が、とどまったのである。

プロを破って、どんなに勇名をはせようと、これをクラブチームとして維持していくには選手に別の生活基盤が不可欠だ。

この混乱期、ただでさえ就職難なのに、野球選手を社員として抱えておける余裕など、本来どの企業にもあるはずがないのだが、しかし、そんな不可能を可能にしてしまうところに球都桐生の奇跡はあった。

希望の火を消すまいと、一つまた一つ、支援者は現れた。こんな日がくることを、待っていたのは選手だけではなかったのだ。稲川自身も三共繊維という会社を設立し、中村や斎藤ら4、5人の選手を抱えた 。

桐中野球部と掛け持ちのため、全桐生に関しては影に徹した稲川だが、このチーム運営のために裏方でどんな苦労をしていたか、二人はよく知っている。

そうした熱意に報いるには、勝つことである。復活の決まった都市対抗に向けて、全桐生は発進した。目指すは覇者の黒獅子旗。

1946年春、そんなもくろみの急成長を全国はまだ知らない。(青木修記者)

資料協力:桐生タイムス