桐生タイムス復刻記事『全桐生消滅 勢いづく復興の中で』

桐生タイムス復刻記事『全桐生消滅 勢いづく復興の中で』

東急フライヤーズに結集した桐中OB。前列左から常見茂、皆川、池田、後列左から稲川、斎藤、常見昇。

1950年(昭和25年)、桐生のまちは、ガチャマン景気の到来に勢いづいていた。ガチャっと織ればマンと儲かるといわれた、戦後織物業界の絶頂期である。

だが、時まさに基幹産業が元気を得て、混乱の世もようやく具体的な目標を描き出しつつあったころ、資金繰りに行き詰った全桐生は、プロ東軍を破った伝説的勝利、そして都市対抗野球に旋風を巻き起こした華々しい記憶だけを残して、静かに時代の表舞台から消え去っていった。

中村栄が全桐生の解散を切り出したとき、稲川東一郎は「なぜもう少し頑張れないのか」と怒ったという。しかし、そんな時期が遠からずやってくることを、稲川自身は気づいていたはずである。

当時の関係者たちは、解散の最大の理由が、この資金難であったという事情に、いまもあまりふれたがらない。

だが、この苦境をしのごうと、選手それぞれが真っ黒になって働いた事実は、恥ずかしいどころか、むしろ勲章といってもいいのではないだろうか。

もともと桐生には、野球が育つ豊かな土壌があった。しかし、それを開墾する人を得てこそ、実りはある。東ちゃんが半生をかけてまいた中等野球の種は、この地に社会人野球の素地を築いた。

戦前の桐生実業、さらには、全桐生以降に誕生した桐生織物(監督・塚越正宏、主将・中村茂)へ、それは脈々と引き継がれていく流れである。

だが、戦争で丸刈りにされながらも、大地にはしっかりと根を残し、戦後の荒れ果てた人心を潤す大事な資本となった全桐生の役割は、やはり特別であった。

全桐生が産声をあげたとき、このまちには一万人からの失業者があふれかえっていた。

逆に、全桐生が誕生したころ、産業面には大いなる希望が見え始め、当時の新聞が「終戦直後の失業者の八割が就業した」と記事で扱っているように、世の中は、ぐっと落ち着きを取り戻していたのである。

その勢いに乗り、功労ある全桐生をさらに盛り上げていく選択肢も、市民にはあったはずだ。

だが、この全桐生が駆け抜けた四年という歳月を改めて見直せば、進路を見失ったこころに大きな希望の灯をともし、やがて人びとが自分の足で歩き出すまでをしっかりと見届けた、そんな歴史的役割がくっきりと浮かびあがってくる。

それは、役割を担った獅子たちにとっても同じことであった。

最後まで残っていた中村は国鉄スワローズに入団し、稲川豪一、常見茂、斎藤宏は、皆川定之や常見昇や池田力のいる東急フライヤーズへ、木暮英路は兄力三のいる西鉄クリッパーズへと、それぞれの未知を歩みだした。

ここに青木と大塚と三輪が加われば、全桐生発足のメンバーは、いずれもプロの経験者ということになる。改めて、すごいチームであったと思う。

この冬、中村は体調を崩して入院をした。すると、隣のベッドの男性が「失礼ですけど、オール桐生の中村さんですか」と、すぐに声をかけてきたそうである。

同時代体験のない人には、その伝説でさえ、いまやおぼろげな存在でしかないが、全桐生というチームとその獅子たちの姿に抱いた当時の人たちの鮮烈な印象は、五十年を経ても、まだ色あせていない。

その礎を築いた稲川野球にとって、全桐生の活躍とは、いわばひとつの副産物だった。しかし、戦争という大きな時代のうねりに焦点をあててみれば、この困難なときにこそ、稲川野球は最大の光を放って輝いたのである。

正視できない太陽のまぶしさではなく、あばたも陰もみせる月のように、それは柔らかい明かりで、このまちを包み込んでいた。(青木修記者)

=「無冠の獅子たち」稿おわり

資料協力:桐生タイムス