
球都桐生のレジェンドたちが語る“稲川東一郎監督像”
球都桐生プロジェクトの取材を依頼した、稲川氏に縁のあるレジェンド達のコメントから稲川東一郎監督の人物像に迫ってみた。
レジェンド達とは…
森村晃一氏(桐生高校昭和38年度卒、明治大学野球部主将)
片桐且仁氏(桐生高校昭和40年度卒)
佐藤真三氏(桐生高校昭和41年度卒)
前野和博氏(桐生高校昭和41年度卒、東芝の監督として都市対抗優勝)
河原井正雄氏(桐生高校昭和47年度卒、青学大監督として全日本大学野球選手権優勝)
福田治男氏(上尾高校、東洋大卒、元桐生第一高校野球部監督、1999年夏の全国高校野球選手権において、春夏通して群馬県史上初の全国制覇を成し遂げた)
※河原井氏・福田氏は直接稲川監督の指導を受けていない。
1 「データ収集(ID野球*の先駆者」
・先乗りスコアラーによるデータから打球の傾向、投手の攻略法など緻密なデータをまとめさせ、(コピーのない時代に)手書きにて選手に配布、試合前の事前確認を行った (片桐氏、佐藤氏)
・いつでもスコアブックを見ている人だった。先乗りスコアラー、データ野球、体力作りの先駆け(前野氏)
・稲川監督本人も松山商業に偵察に行き1967年センバツ大会で対戦、勝利に導いている。(河原井氏)
*ID野球:野村克也(選手としての実績も素晴らしかったが、監督として南海ーヤクルトー阪神ー楽天で監督を歴任。リーグ優勝5回、日本一3回の名将)が標榜した「ID野球」。
評価されたのが1980年代から90年代であったが、その30年以上も前に稲川氏は先駆的にデータ収集・活用を行っていた。
2 「誰からも慕われ、愛される人柄」
・学校や街の方々に愛された監督だった。口笛吹いて自転車に乗っている姿が思い浮かぶ、朗らかでユーモアのある監督だった。(森村氏)
・全国から野球部の監督(高校、大学を問わず)が指導を請いに来た。池田高校・蔦文也氏、上尾高校・野本喜一郎氏なども。稲川監督は胸襟を開き、親切に伝授した。(片桐氏、佐藤氏)
・大学生や社会人の桐高野球部卒業生が来校した際、指導を委ねた時などその指導を一切否定しない度量の大きさ。人が訪ねてきてくれることを大変好んだ(片桐氏、佐藤氏、前野氏)
・「ジャッジに対して、決して不満を言わない潔い姿勢」(河原井氏)
・何より、人間性が人を惹き付ける。豊富な知識経験を惜しげもなくさらけ出す。「稲川監督という凄い人がいたんだよ」祖父からいつも聞かされた。
「稲川さんには大変お世話になった、桐生の子なら面倒見るよ!」:上尾高校の野本監督の弁(福田氏)
筆者も全国で名監督といわれる方にお会いした経験もあるが、中には、「頑なに持論を強要し、他の意見を否定するような姿勢の方」であったり、地元の関係者から「二度とあのチームとは戦いたくない」と思わせるような戦い方をする方もいる。
指導者の姿として、「後輩達に分け隔てなく知識、経験を教える度量を持った」指導者がいる反面、「門外不出の自軍の作戦」を出し惜しむ指導者もいる。稲川監督は前者の典型だ。
3 「選手の見極め」
とにかくその選手の素質・性格等を見極め、適性を見抜く業は卓越していた。体が小さい非力な選手が多いチーム事情の時も、しっかりしたチーム作りの礎に。選手のしっかりした見極め、適性の把握が道を開いた。(片桐氏)
4 その他のコメント
・「第二の父親だ」(森村氏)
・「桐生高校でやったことは大学、社会人野球でもそのまま通用した」(前野氏)
・「ひたすらに憧れの存在」「桐生の野球史を作った人」(河原井氏)
・「桐生高校の野球のみならず「日本の野球の発展、将来を考えていた。」(福田氏)
以上から、筆者は稲川東一郎監督人物像を「野球を愛し、野球に愛され、真摯に野球に向き合い、数々の実績をひっさげ、桐生をはじめすべての人から愛され、尊敬された人物だ」こう結論づけた。
(第10回へつづく)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。