髙田勉氏コラム第7回

恩師との別れは突然来た。

稲川東一郎監督が急逝したのは、昭和42年春季関東大会県予選で伊勢崎球場にいたときの出来事だ。

試合に勝利し、次の試合を球場で偵察しているときに脳出血により救急搬送で美原記念病院に入院、倒れてから二日後の4月18日に逝去した。

飯島氏が入院翌日見舞いに行った時は、いびきをかいている脳死状態の恩師だった。漠然と「この先どうなってしまうのだろう。」と感じたという。回復を願う思いは通じず、あまりにも早い61歳の逝去だった。

葬儀は異例とも言える会場、そして国営放送までも特番に

告別式会場は桐生高校体育館。公立高校の体育館を告別式の会場とすることは今では考えられない対応で、稲川監督は教職員でもなく、いわゆる「私人」であるからなお異例のことだ。

「桐生市図書館郷土資料調査事業 聞き取り事業調査報告書」(令和5年3月31日発行・桐生市図書館編)木本富雄氏聞き取り調査報告によると、この告別式は「野球部葬」だったそう。

教職員や生徒の式への対応は「随時(任意)」だったそうだが、体育館を使っての告別式は別格の扱いだ。

つまり、稲川東一郎氏がいかに桐生高校に、野球部に、そして桐生市民に対しても絶大な存在であったかを象徴することであろう。会場の体育館は満員で、おそらく2000人ほどの参列者だっただろうと推察される。

飯島主将は弔辞を述べた。詳細な内容は記憶はないそうが、弔辞の文面は親戚の方にまとめていただいた。最後に「監督さん、さようなら」と述べたことは鮮明に記憶している。大変な緊張の中だったので、涙も出なかったそうだ。

後日、NHKの支局では「ある人生~名監督死す~」と特番で報道。告別式の模様も映し出されたという。

「ユニフォームを着たまま召される。」野球人としての本懐を遂げることかもしれないが、あまりにも早い逝去だった。

齋藤章児監督「ぜひ稲川氏から野球を勉強したい」で二つ返事に

余談ではあるが、東農大二高の元監督で後の立教大学の監督も務められた故・齋藤章児氏(東京都出身。立教高ー立教大ーヤシカー当時東農大二高教諭)から、「東農大二高赴任のお話があったとき、『群馬には稲川東一郎監督がいる。ぜひ稲川氏から野球を勉強したい』という思いから二つ返事で就任を引き受けた。」とお聞きしたことがある。

筆者にとって齋藤氏は高校生現役最後の対戦相手である東農大二高の監督であり、同時に高校野球監督の先輩としても指導いただいた方である。

齋藤氏が同高に赴任したのは昭和42年4月であり、春季大会では桐生と東農大二は対戦していない。残念ながら齋藤氏の想いは遂げられなかった。

稲川監督の足跡は、多くの関係者の心の中にしっかりと引き継がれ、今日に至っている。

第8回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。