桐生タイムス復刻記事「全桐生旗揚げ 戦が生んだ夢の布陣」

桐生タイムス復刻記事「全桐生旗揚げ 戦が生んだ夢の布陣」

昭和21年7月、全国出場をかけた都市対抗野球関東大会のひとコマ。バッターはオール桐生の常見茂。外野の向こうには、日本銅燃の寮が見え、吾妻山がそびえている(新川球場)

雨上がりの水たまりへ、どこからともなく集まってくるアメンボのように、グラウンドという水を得れば、スイスイと滑走するかごとく、いつでも軽快、俊敏な動きをみせる男たちだった 。

野球という生きがいを無理やりに剥ぎ取られ、戦争という豪雨にじっと耐えてきた。その雨がようやく上がったのだ。

すぐにもボールを握りたいと、気は早った。まもなく復員した常見茂も、そんな一人、昭和14年の桐中甲子園出場組である。

彼が真っ先に尋ねたのは稲川東一郎だが、この時すでに父ちゃんはキャッチボールに手を染めていたというから、さすがに大将が別格である。

その常見が当時西小の代用教員をしていた弟の昇と母校の昭和小でキャッチボールを始めたのは、大将に遅れること、どれほどたってからだろうか。

「あれは確か、学校が始まって間もなくだったかな」 。現西中の金井吉雄校長(58)は、このとき昭和小3年生、時代の夜明けを球音で知った少年である 。

終戦の年の1学期はほとんど家庭学習で、学校へは行かず、登校したのは夏休み明けだ 。そんな久しぶりの校庭で、豪快にボールを飛ばし、軽快に追いかける数人の若者たちを見た 。話には聞いても、見るのは初めての「野球」だった 。

進駐軍との3試合すべてに参加した新井展夫(69)は、桐中昭和16年組で、常見昇とは戦争で甲子園を奪われた仲間である 。彼が記憶する始動のいきさつは、こんな具合だ 。

「あのころ続々と仲間が復員して、稲川監督の家、常見さんの家、そして吉野鮨の2階がたまり場になっていたんです 。ろくな仕事もないし、やっぱり野球がやりたくて 。場所はいつも昭和小だった」 。

戦時中の資材が山と積もれた新川球場は、まだとても使える状態ではなかったのだ 。吉野鮨とは、桐中野球の名誉応援団長吉野錦風の家である 。その吉野鮨で、新井は進駐軍との対戦を知った 。

「試合当日の通訳は確か桐生教会の牧師さんで、練習の動きを見れば、試合の結果は見えていたけど、試合の先攻を決る際、兵士がコインを、こんなふうに指で弾いてね。それが妙にカッコよかったな」という 。

桐中第一黄金期を築いた青木正一(77)も、戦前のプロ球団タイガースの投手を経て、昭和14年から7年間を戦争で費やした 。運よく内地で終戦となり、残務整理を終えて復員したのが10月 。

「進駐軍と試合をするぞ」 。連絡は、東ちゃんから直接きた 。

復員してから茨城に移り、プロへの復帰を模索していた中村栄(72)は、第2戦を前にして、同期の常見茂から誘いを受ける 。参加メンバーを聞き、もう負ける気はしなかった 。

戦前オールスターに出場したこともある。タイガースの名遊撃手皆川定之。三塁はセネタース時代に豪快なプレーで鳴らした大塚鶴雄。稲川野球の超一級品で固めた、胸の高なるような強力布陣だったのである。

もしも戦争がなければ、それぞれの道を歩んで、まず一堂に集まることのない面々だった。駐在軍との試合は終わったが、そのまま解散するにはいかにも惜しい。

抱く思いはみんな同じだ。そこへ斎藤宏、稲川豪一、巨人の四番打者・木暮力三、富田達也など、桐中勢がさらに厚みを増していく。

負けじと、下瀬正雄や佐復良一ら桐工勢も加わって、はずみがつき、ついに東ちゃんを監督に据えた「全桐生」の看板は立ち上がった。

球都桐生に、それは「ドリームチーム」の出現である。1945年(昭和20年)11月17日、彼らの初お目見えとあって、新川球場は超満員の観衆でふくれ上がった。

この日のためにみんなで整備したグラウンドの土が、水を含んでにおい立つ。招待席には、あの駐在軍の姿もある。兵士の目は自然と、かの野武士たちに注がれた。急あつらえのユニホームが、なるほど、実によく似合う男たちだった。(青木修記者)

資料協力:桐生タイムス