髙田勉氏コラム第6回

稲川野球は家族のバックアップも貴重な“戦力”に

高校野球の指導者に限らず、学校の運動部活動指導者は概して、家庭を犠牲にすることが多い。

ご多分に漏れず筆者の家庭も同様で、高校野球の監督を10年余り務めていたが、やはり妻は「ベースボールウイドウ」であったし、一人息子の長男は「野球は敵(かたき)」と思うことも一度や二度ではなかっただろう。

義父も同じ高等学校体育教員で種目は違う(陸上競技)が、インターハイや国体チャンピオンを育て上げる名指導者であったと同時に家庭に多分な負担をかけていた人だった。

初めて妻の実家にあいさつに伺った際、義母は「何でまた高校の体育の先生なの???」と娘の将来を案じるようなコメントがあったという。

また、長男にとっては高校野球の夏休み中、「夕刻になって子ども番組を(中継延長のため)奪われてしまう存在」であるし、1996年・1997年と前橋工業高校2年連続夏の甲子園でベスト4の時は2年とも18泊19日の強行軍で、「夏休みの約半分を『お父さんをとられてしまう存在』」であり、存在からすればにっくき敵(かたき)であろう。

前置きが長くなり恐縮だが、結婚し4人の子宝に恵まれた稲川氏は、息子さん達も奥様も稲川監督を家庭で理解し支えてくれた存在だった。

稲川監督の家族が継いだ確かな野球熱

前出の飯島氏によると、現役時代に稲川監督のグラウンドを離れた時の姿とはあまり接さなかったという。

しかしながら卒業後も稲川家とお付き合いがあり、時折食事やドライブなどに出かけたそうだ。そんな折、奥様が宝くじを購入した。

「何に使うんですか?」と尋ねると、「一等が当たったら、そのお金で桐高のグラウンドを大きなものに買い換える」とのこと。

野球にばかり時間を費やしている夫に対してときには否定的な感覚になることもあろうが、「そのお金で桐高のグラウンド」という台詞が出るなど、到底想像もつかない。

また稲川氏急逝後、後任監督には二男の義男氏が就任。前任者で父でもある「偉大な」東一郎氏の後任たるや、さぞや大きなプレッシャーであったことは容易に想像される。

現に監督就任直後の義男氏は、その不安を払拭するかのように、かなり厳しい負荷の練習を課したという。当時の主将だった飯島氏曰く「ヨシ兄い(こう言って義男氏を呼んでいたそう)これじゃ夏の大会前に選手が潰れちまうよ!」と訴えたほどだった。

それに対して義男新監督 は「甲子園に出場するんじゃない、親父の遺影を持って甲子園で優勝だ!」と高い目標を掲げ、春季関東大会優勝を果たした選手達に檄を飛ばしたという。

しかし筆者の眼には、この激しい(厳しい)練習こそが「父への最大限の敬愛の表し方」ではなかったか?親父はなぜ「甲子園優勝」の志半ばで逝ってしまったのか?

稲川家は家族そろって桐高野球部を支えていた姿が目に浮かぶ。

第7回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。