
統合元である桐生西・桐生南両校で指揮を執った森山弘・現監督
桐生市内高校の掉尾は桐生清桜高校だ。
桐生清桜高校は学校創立2020(令和2)年11月、桐生南高校と桐生西高校が統合されて旧桐生西高校の敷地に創設された。野球部創立は2021(令和3)年4月である。
今回は桐生南高校・桐生西高校を教員として経験され、そのまま桐生清桜高校の教諭となり野球部監督もされている森山弘氏にお話を伺った。
森山氏は、桐生南小ー桐生南中ー桐生南高校ー日本体育大学ー臨時教員の期間を経て、1994(平成6)年に群馬県公立高校教員に採用された。
伊勢崎東(現伊勢崎)高校(6年間)ー桐生南高校(11年間)ー大泉高校(9年間)ー桐生西高校(1年間)、そして21年から桐生清桜高校で今日に至る。保健体育科教諭、生徒指導主事も務めている。 現在57歳。
【できなくなる時が来るので、できる時に野球を続けよう】
「球都桐生プロジェクト・球都桐生の歴史・特集:桐生の高校野球」の桐生清桜高校・森山氏のインタビュー記事にこのようなフレーズがあった。それが筆者の心に留まったので、まずそこを聞いてみた。
森山氏「大学3年時になる時、自分自身が「選手」を選ばず「指導者」の道を選んだことが後の『大きな後悔、やり残したこと』として引きずってしまいました。」
当時の日体大は、野球部の同期が140名、4学年で400人にも及ぶ大所帯だった。
同校は、2年生から3年生になる際に一軍以外の者は自動的に選手から外れ、「Aコース(指導者コース)として、コーチング、審判、記録・研究、トレーニング分野の道」に振り分けられた。
森山氏は一軍におり、周囲や先輩から「選手に残ったら」とラブコールがあったにもかかわらず、選手としての可能性にチャレンジせず「自分に自分が見切りをつけてしまった」ことが後悔として残った。
「とことん」突き詰められない、「努力し続ける才能がなかった」と後悔する。
従って標記のフレーズにより、指導する選手達や自身のお子様に対しても、「可能性がある限りチャレンジしよう」と鼓舞し、叱咤激励する今の森山監督像、指導者としての姿が醸成されたようだ。
「二つの学校をつなぐ」最も理想的な人材
【二つの学校をつなぐ帯になる】
二つの学校を経験し、その後統合された後の学校への赴任、加えて卒業生という現在は「理想的な、最もふさわしい配置」であると考える。
公立学校は異動がつきものであるし、人事異動については相手もいることなので、なかなか「理想の形」が実現することは難しいが、森山氏は「もっている」人なのだろう。
前出の球都桐生プロジェクトのサイトには、森山氏「①まずチームが勝つこと ②それによりOBが球場に足を運ぶ ③さらに卒業生が大学で野球を続ける」このポイントにより、清桜高校の野球部の発展につながり、それが「二つの学校をつなぐ帯になる」ことになるという図式だ。
【二度のベスト4】
桐生南高校の夏の大会県ベスト4の2回の実績は、2009(平成21)年第91回、2012(平成24)第94回だ。
(1)2009(平成21)年第91回選手権群馬大会
第91回大会は、森山氏が監督をしていたので、試合経過をお話ししてくれた。
二回戦 対市伊勢崎 9-2:逆転コールド勝利
三回戦 対高崎商 3-2:延長サヨナラ勝利
四回戦 対太田東 9-2:比較的楽なコールドゲーム
準々決勝 対富岡 5-4:水野(四番捕手)のサヨナラホームラン
準決勝 対東農大二 1-8:微妙な判定により流れが途切れ敗戦
(2)2012(平成24)第94回選手権群馬大会
第94回大会は現在太田東高校の監督である石井洋之監督が指揮を執った。石井氏も桐生南高校野球部のOB監督だ。
二回戦 対松井田 8-0
三回戦 対前橋工 2-0
四回戦 対樹徳 2-1
準々決勝 対利根実 4-0
準決勝 対高崎商 0-1
教員の立場として考える「球児たちの将来」
【将来を考える】
森山氏「どうしても私学との格差が広がっている現状を鑑みると、普通高校であり、進学が主な進路の高校として毎年甲子園出場を具体的にイメージするところにはハードルの高さを感じる。
勝負している限りは『勝つ』ことが第一義だ。しかし、トーナメントの勝者は1チームであることから、『潔い敗者:負けっぷりを良くすることが選手の将来(人生)に対する大きな影響がある』と考える。
また森山氏は「人からかわいがられる子に育ってほしい。」とも語る一方で、「このところ複数大会で連続1点差負けなんですよ…それが悔しくて、指導者も含め何が足りないか思い巡らす日々です。」と勝負に対する執着はまだしっかり留まっている。
旧桐生南高校跡地の職員室の黒板の上には、当時のままに模造紙に「高い学力、強い部活動、充実した学校行事」と大きく掲げられている。バランスの良い生徒の成長を目標にした学校目標である。
多くの卒業生がこういったバランスの良い社会人になって旅立ったことだろう。
しかしながら、野球部の卒業生の中には、中庸の道を選ばず、経済界や野球界に打って出た、新たな領域を切り拓いた挑戦者が多数存在する。
(第33回へ続く)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。


