髙田勉氏コラム第29回

選手として出場した甲子園への道のり

【選手として心がけていたこと】
前回で触れたとおり、木村一夫監督が「選手の主体性」を重んじる監督だったので、井達氏「中心選手として、そして最上級生に至っては、主将として皆より練習しなければならない」ことを自らに課した。

主将として、主力選手として「背中で示す。」ということか。

【1991(平成)年 第73回選手権大会】
(1)群馬大会 
県予選は、2回戦(対桐生9-7:阿久沢毅監督)がとにかく苦しく、大逆転で勝利した。

そこから一気に波に乗った。このように高校野球では、大会のターニングポイントになる「ゲーム」で波に乗ったチームがそのまま駆け上がるケースが多い印象を受ける。

(2)選手権大会
初出場でかなり浮き足立っていた。前年出場校の食中毒騒ぎなどがあり、飲み水にまで気を遣い「水道水も飲めない」状況だった。あっという間の甲子園終了だった。3-12大阪桐蔭(その大会初出場初優勝)に手も足も出なかった。

【1992(平成4)年第74回選手権大会】
(1)群馬大会
連覇のプレッシャーがとにかく大きかった。「プレッシャーの中で本命が勝つきびしさ」の中で甲子園を決めるところは、この年の樹徳はそれほど盤石なチームだった。

(2)選手権大会
井達氏「第74回大会は甲子園に行ってからは余裕があった。」外からの圧力、雑音等に気を使う対応が多く『野球以外に気を遣うことが多い大会』これも甲子園か。

H4近江(滋賀)に勝ち(8-1)、甲子園で初めて聴いた校歌、感無量だった。天理に惜敗(2-3)。

【戸部投手と一緒に日大へ】
戸部投手(樹徳高校ー日大ー東芝府中・東芝ーロッテー楽天)は、とにかくしっかりした投手だった。

井達氏「やっぱり戸部がとにかく良かった。『縦のカーブを投げれば打たれない。』と本人が言うように守っても余裕があった。井達氏は2年からショートで出場、3年次は主将・ショート・3番。

「中心選手がしっかりしているチームが勝つ。」高校野球の勝利のセオリーだ

 筆者は、当時高野連の運営サイドで記録を担当していたが、戸部投手の印象は、「ランナーがセカンドに行くとフルスロットルでおさえる。」で、決して悪い意味ではなく、そのくらい余裕があった投手に見えた。

選手時代以来、監督としても甲子園へ

【監督として】
井達氏の監督としてのポリシー:自身が甲子園に行くことによって大げさに言えば「人生が変わった」ので、選手達にもそういった感覚を味わってほしい。3年間で人生を変えられるような経験をしてほしい。野球に限らず、生活でも。

少年野球をやっている時から、桐生市のチームには勝てなかった。桐生の高校で野球したいと思った。桐生市民は野球に対しては熱烈で、樹徳のグラウンドに毎日来る支援者もいる(熱の入れ方が違う)。私学として桐一とのライバル関係もあることも奏功した。

【2022(令和4)年第104回選手権大会】
前回のコラムで「井達監督は2回目の監督就任」とふれたが、このことが甲子園出場の二つのキーポイントになった。

一つは1度目の監督を退き、テレビ中継の解説をしていた時期があった。筆者が県高野連の会長時で、ご挨拶に見えた井達氏は印象は深い。井達氏「解説をやらせていただいて、経験・視野も広がった」良い勉強になった充電期間だった。

二つ目は、この大会の主力選手が、二度目の監督になる時に入学してきた選手が中心だったこと。監督としてリスタートする時に亀井投手(広沢中出身)をはじめ桐生市内の子供達が集まってくれたことだ。

亀井投手を見た時に、井達氏「この子と一緒に甲子園行きたい」と感じたという。決して大きくはない体格だが、戸部投手を彷彿させる雰囲気を持っていたからだ。

(1)群馬大会
ノーシードから6試合を勝ち抜いた。圧巻は、準々決勝での対前橋育英(6-0)だ。亀井投手が完封し、当時群馬大会5連覇中の前橋育英の6連覇を阻止。

「前橋育英不敗神話を破った」チームだった。こうなると勢いは止まらない。桐一(10-7)(準決勝)、健大高崎(6-4)(決勝)は選手達は「負ける気がしなかった」

(2)選手権大会

 開会式の余韻も覚めやらない初日第2試合。あっという間に終わってしまった初戦、対明峰(大分)3-7の敗戦。何もできずに関係者、特に選手達に申し訳ない気持ちで一杯だった。

「桐生の子を桐生で育てる」:一貫したポリシーのもと4回目の甲子園、2度目の校歌斉唱を実現したい。選手達の人生を変える出会いを模索し続けたい。

(第30回へ続く)

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。