髙田勉氏コラム第28回

井達誠・現監督が語った樹徳高校入学の決め手

続いて登場は樹徳高校だ。樹徳高校は、1914(大正3)年に裁縫伝習所として創立された110年余の歴史を持つ高校だ。2001(平成13)年は中高一貫教育のため、樹徳中学校を開校し今日に至っている。

野球部は、1969(昭和44)年に創部、甲子園出場は、1991(平成3)年第73回、翌1992(平成4)年第74回と、2022(令和4)年第104回大会の3回、いずれも夏の選手権に出場している。

今回は、第73回・74回に選手として、第104回に監督として甲子園に出場している井達誠氏にお話を聞いた。

井達氏は樹徳高校卒業後、日本大学・社会人野球の富士重工などを経て現在、樹徳高校の公民科(社会科)の教諭である。野球部監督は2度目の就任であり、現在51歳である。

【桐生のチームへの憧れ・ライバル心】
井達氏は大泉町の出身で、小学生の頃から野球を始める。地域ではまずまずの成績のチームだったが、必ずその前に立ちはだかるのは、「桐生のチーム」だった。

「違う次元の野球」と感じる位、歯が立たなかった。その時から、将来は「野球をやるなら桐生のチーム」だと進路の意志決定をしたという。かなりの数のチーム(高校)が声かけてくれたが初志貫徹、桐生市内にある樹徳高校に入学をした。

当初は驚きがあったという木村一夫監督の指導

【画期的な木村一夫監督の指導】
樹徳高校に入学した井達少年の目には、木村一夫監督率いる樹徳高校の練習が画期的なものに写った。「正直こんなもんか?」…時には手応えを感じないこともあったというが、奥の深い現実があった。

当時は高校野球の場合、多くは上意下達の色彩の強いチーム運営(指導)が主流だったが、全く違った。具体的には、

①練習時間は平日、休日共に3時間:これは、「野球の試合は長くて3時間だから」常 に「お先に」と帰るのは監督だった。木村監督はすでに鬼籍に入られている。井達氏「何 を考えてこのような練習を展開させていたのか?真意を聞きたい」

②選手の主体性にまかせている雰囲気:しっかりやらなければそれまで、やらないと絶 対に使ってもらえない。「正直こんなもんか?」との第一印象は一蹴される。かえって 厳しい環境だとわかったからだ。

③グラウンド整備も全員で行い、後輩に対する暴力や使い走りは絶対禁止。

④指導中、監督が怒鳴る声などは皆無。

このように、当時の高校野球としては、非常にスマートな、民主的な印象を受けるチーム運営だった。

しかしながら、そのような運営は、時には、OBはじめ地域の樹徳高校野球部ファンにとっては「物足りない」「そんなことでは勝てない」と受け入れられなかったのではないか?とも感じられる。

そんな外圧を覆し、杞憂にしたことは、結果、つまり樹徳高校史上初の夏の甲子園出場、それも連覇という偉業だった。こういった木村監督の発想の源流は?と尋ねると

井達氏「当時から木村監督はMLBに関心を払っており、『メジャーの選手は一気にトップまで駆け抜けるよ!』とおっしゃっていました。」

当時はその言葉の真意はあまり理解できなたかったが、推測するに、「選手が旬の時期(ゾーンに入っている時期?)に一気に成長し、他を寄せ付けないほど力が向上する。」ということではないか。

そこには主体性が何より第一義で、それがチーム力にも通ずることだと確信していたのだろう。

井達氏にとっては超えることのできない「人生を変えた存在」それが木村一夫氏だった。  次回では、井達氏高校2年次、3年次の連続甲子園出場と、監督としての井達氏の姿に触れる。

第29回へ続く

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。