
桐生野球の原点とは?全国制覇への礎
【選抜初出場後の敗戦、立て直し】
前回、選抜初出場、ベスト8になったチームの夏の敗戦後、「高校野球の原点に立ち帰ろう」捲土重来を期した桐一野球部は、これが日本一の栄冠を手にする礎になった。
新チームに課された命題「原点回帰」は、…福田監督、青柳部長で話し合った結論だ。
『新チームは、とにかくなにも言わずに黙々と付いてきてくれた』
グラウンド整備、道具の手入れ、部室の掃除、基礎練習、時には主力メンバーが大会補助員に…通常では野球部員にとっては「つまらない、できれば避けたい」練習や作業だ。
しかしながら、選手達は指導者の思いをしっかり受け止め、個々の課題を遂行し、少しずつ成果が出始めた。反面、『生真面目すぎた』ことが「勝負に弱い」もろさもあって、なかなか勝ち運に恵まれなかった。
【悲運の主将、夏の甲子園初出場からの】
選抜初出場の2年後輩の学年は、一学年上の先輩の地道な努力と踏ん張りにより、第75回全国高校野球権大会に出場(初めての夏の甲子園)し、ベスト16の成績を収めている。
『キャプテンの大会中の骨折がかえってチームワークを醸成できたチームだった。』
夏の大会初戦後の練習中、主将の松井宏和選手が右手小指を骨折してしまうアクシデントに見舞われた。大会中に骨折するということは、「夏の大会絶望」である。
記念誌にも記載されているが、松井選手は涙に明け暮れていた日々だったそうだが、チームメイトからの言葉は、「おまえが治るまで勝ち続ける」だった。
松井選手は、気持ちを切り替え、右手に包帯を巻いた姿でサードのランナーコーチャーをつとめ、見事夏の選手権群馬大会の王者になった。
甲子園においても3回戦まで勝ち進み、2回戦では、好投手平井正史(オリックス、中日で活躍、現在オリックス二軍投手コーチ)を擁する宇和島東高校を7-2で破った試合は圧巻であった。
余談だが、筆者が中央高校野球部の監督時代、松井主将のこのチームと春、夏共に対戦し、一勝一敗である。
当時の中央高校は強打を誇り、R5まで大会通算打点47の記録を保持していたチームだ。松井さんとの話も懐かしい気持ちで一杯だった。
松井さんに話を聞いた。松井宏和さんは、現在50歳。県立桐生工業高校の地歴・公民科の教諭として、生徒指導主事という、学校の要として、また、野球部の責任教師として活躍している。校長からも「丁寧な生徒指導は、とても頼りになる存在」とのこと。
桐生第一高校卒業後、東洋大学、科目履修聴講生の時期を経て、桐生第一高校に5年間勤務、その後群馬県公立高校教員採用試験に合格。
大泉高校5年勤務後現在の桐工で6年目を迎える。とても物腰の柔らかい口調で、丁寧に話してくれた。
「あのケガが自分の人生を左右する出来事であったことは間違いありません。ケガ直後のチームメイトからの励ましの言葉は、「友情という財産」をもたらしました。
そのことが、「将来の高校野球の指導者」になる決意を後押ししてくれました。桐一での高校野球は、私の人生の縮図のようなもので、苦しくなったらダグアウトを見ると福田監督がどっしり構えていてくれる。そういった安心感や勇気を与えられる指導者になりたいです。」
松井さんはOBとして全国制覇にも一役買っている。それは後ほど。
(第21回へつづく)
プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。
群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。
1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。
とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。
その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。


