髙田勉氏コラム第13回

新川球場周辺から栄えた桐生“学生のまち”

昭和初期から第二次世界大戦前後の新川球場における街の活性化の様子をみると、前号のコラムで触れたとおり、野球はもとより様々なスポーツイベントの中心的な施設で各種大会を開催と同時に、球場を中心に様々なお店が出店したり、そこに私財を提供する人が現れたり、…人が集まる仕組みが見事に構築されていた。

本コラムでは学校、特に高校の所在と街の発展について考える。

本コラムVol.10において紹介した小野里了一・桐生市史編さん室係長が、子どもの頃や桐高野球部の話をされる時、時折東方向を指さし、「そこで桐高野球部が野球の練習を、…町内団対抗のスポーツイベントが…」という話をされた。

桐生市史編さん室は桐生市立図書館内にあり、新川公園の西隣つまり小野里氏が指さしている(東側の)先にはかつて新川球場があり、現在は新川公園のまさにその場所だ。

図書館の西側に桐生高校、さらに新川公園の東に樹徳高校が並んでいる。つまり、JR桐生駅南の西から東へ桐生高校→桐生市立図書館→新川公園(新川球場)→樹徳高校と並んでいる。

JR桐生駅から徒歩移動可能の距離に桐生市内の伝統ある高校2校が所在する。少々視点を広げると、JR桐生駅から半径約1㎞以内に桐生高校、樹徳高校に加え、桐生市立商業高校、桐生第一高校があり、市内6校の高校中4校がこの範囲に所在する。

筆者が見る現在のJR桐生駅周辺の車窓からの風景は、多くの高校生がの姿に目を奪われる。「三丁目の夕日」のような、懐かしい風景というか、優しい風景に映る。優しい街桐生…

同様の視点(市街地中心の公共交通機関の駅から1㎞以内の高校数)で他の旧五市(前橋、高崎、伊勢崎、太田)を比較すると、前橋市(JR前橋駅)は12校中3校。

高崎市(JR高崎駅)は13校中0校。伊勢崎市(JR伊勢崎駅)は6校中1校。太田市(東武太田駅)は8校中1校である。

これが何を意味するのか?高校の中には、それぞれの事情で校地移転をしたことにより、より郊外に移動した事情もあるが、やや強引な論だが、「高校生で賑やかな市街地は、様々な文化、情報発信などが活性化し、さらに学生の街、つまり優しい街だ」と考える。

球場付近、特に南方向の市街化する先鞭をつけたのは桐生裁縫女学校(現在の樹徳高校)が昭和2年4月に本町六丁名から現在地に移転してきた(後略)」前出(市民の球都桐生を育てた新川球場のあゆみ(川島伸行氏令和6年9月10日))

とあるように、樹徳高校の移転は新川球場創設に合わせたタイミングであることから、「市街化する先鞭を」つける先見があったと思われる。このことからも、先ほどの筆者の論が的を射ているのではないかと考える。

市街地の活性には学校が必須だ。つまり、新川球場を中心とした、(社会・生活インフラ)の存在そのものが、桐生の街そのものの隆盛の起爆剤になったとも言える。

一方で、新川球場は、(繰り返しになるが)総合運動場として設置され、中でも野球というコンテンツにより街の隆盛にも寄与した。

現在桐生市が展開している球都桐生プロジェクトは「しくみ」として市が標榜し、展開している事業だが、新川球場及びその周辺はすでに70年以上前に「自然発生的なボールパーク」だった。

複合的に絡み合った結果、総合運動場の要素を加味した球場、シンボリックなチーム(桐高野球部)、すばらしいチームリーダー(稲川東一郎監督)、支援者の輪が、街の活気を生む…すさまじい力『新川球場』

第14回へつづく

プロフィール

髙田 勉(たかだ・つとむ)
1958年、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)生まれ。

群馬県立高崎高等学校では野球部に所属し、桐生勢とは“因縁”あるライバルとして白球を追う。その後は筑波大学に進み硬式野球部に所属。

1982年より群馬県内の公立高校で教鞭を執り、野球部の監督・部長として多くの球児を育成。

とりわけ前橋工業高校の野球部長時代には、1996・97年に同校を2年連続で夏の甲子園ベスト4を経験。

その後は群馬県教育委員会事務局、前橋工業高校校長、群馬県高野連会長などを歴任。2019年~2025年3月までの6年間、群馬県スポーツ協会事務局長を務めた。