稲川野球の証言者:黒崎武(桐高OB・元プロ野球選手)

証言者:黒崎武さん(桐高OB・元プロ野球選手)

桐生高校を卒業後、1959年に東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)に入団し、9年間で通算332試合に出場した黒崎武さん。62年の日本シリーズにも出場し、球団史上初の日本一にも貢献した。

86歳となった2026年、80歳以上のチームで構成される「球都桐生傘寿」の監督に就任し、選手たちに培った技術や経験を惜しみなく注入しチームの底上げを図っている。

今もアップデートを続ける野球人生、その所以は稲川監督から受けた教えを実践し続けていることにあった。

プロ野球も行う練習を桐生高で先んじて導入

あの時から桐生は旗売りがすごく盛んでしたし、野球でも年に1回は必ずというくらい甲子園に出ていたんです。

当時はドラフトもない時代ですから、私はなにしろプロ野球に入るには甲子園に出たいということで、それならどこがいいのだろうと考えたら、やはり桐生高校がいいのではないかと思い、桐生に入りました。

それで稲川さんの下でやりましたが、監督自身がものすごく勉強してましたね。「この人の下だったらプロ野球選手になれる」と思って一生懸命やって、その通りプロ野球になれたんです。

桐生高でやってきたことプロでそのまま活かされた

稲川道場というのがありましてね、そこで練習をできたのが大きかったです。さまざまな器具を使ってやったものが、プロに入って同じものがあったんです。

ですから稲川さんは先手先手と、アイデアを考えてやっていました。プロに入ったら「高校時代と同じものがある」と。そうしたらプロでも同じものを使っているわけですよ。

あとタイミングの取り方でもすごく参考になりましたね。プロはボールが速いですから、それだけタイミングを取るということをここで知りました。

新聞を丸めたりテニスボールを放ってもらったのを打つのですが、ボールにすごく変化があるんです。それを実際に道場の中に網を張って打っていました。

稲川さんの考え方は、普通の監督さんよりも何年も先に読んでたような監督でしたね。素晴らしい監督だったと思います。

毎日日記にもびっちり書いてあって、それも印象深いです。あの時のプレーとか、いいプレーを必ず記録して覚えています。

それを選手に「こういう時があったんだから、お前はこうするんだ」というお話をしてくれる監督で、そういったことをとことん追求していました。

私はその後東映に入って土橋(正幸)さんの部屋に一緒に入って6年間一緒に過ごさせてもらったのですが、その時に「お前は稲川監督に教わったのか。じゃあ頑張れ!」と、プロでも稲川監督は有名だったですね。

監督さんも真面目な人だけど、奥さまが一生懸命サポートして一緒にやってくれました。奥さまも本当にしっかりされていました。

稲川さんってお酒が好きで、飲んじゃうともう野球の話ばっかりで解けちゃってね。まあそれも人間味があっていいんじゃないでしょうか(笑)。

他校も遠方から指導を仰ぎに道場へと訪問

他の監督さんもある程度私も知ってますけど、他のチーム・県の監督さんが稲川さんの野球を知りたくてみんな集まってきたのを覚えています。

桐生はなぜこんなに甲子園へ行けるのか・何か秘密があるんじゃないかと、中には関西から来る方もいらっしゃいました。

それで1日指導を受けて道場でも実践するんです。持ち帰って真似した高校の監督もいて、確かに強くなってましたから。

なかなか他の高校さんにいいことを教えることはあまりないですよね。強豪校ですから。それでも敢えて教えてたからすごいことですよ。

稲川監督は他校からも羨望の眼差しが送られていた

私は高校3年生の時に甲子園に行ったんですけども、全国から高校がたくさん出たものですから、試合が組めなくて西宮球場も使ったんです。(※この年は40回記念大会として大会史上初めて47都道府県から1校ずつ出場して行われた)

なので、甲子園大会として出ても西宮で終わったら甲子園球場に行けないわけです。それで桐生もね、第1試合は御所工(奈良)が相手で西宮球場だったんです。

しかも御所工のピッチャーが完全試合をやったピッチャーで、左でいいピッチャー。それを私が打ってそれで甲子園に行くことができた。甲子園では村椿(輝雄)と板東(英二:徳島商)がいましたね。

私は1940年生まれでして、同級生には板東あとは王(貞治)・張本(勲)がいます。

80歳以上で構成される「球都桐生傘寿」でも実践する練習

「プロ野球の人がよくボールが大きく見えるって言うけども、なぜそう見えるか」を教わったりしました。

列車が来た時に、同じようにヒュッと見たら誰が乗っているか見えないわけですよ。それを一緒になって追って見れば、どんな人が乗っているか分かると。なので、しっかりと引き付ければボールは見えるよという意味なんでしょうね。

最初はそれが分からなかったですが、プロに入って初めて理解できました。今でも続けていますし、傘寿の選手にもそういう話をします。

今泉(※)はすごく体格もいいから、「もっとこうやったらどうだ」って言ってから飛ぶようになりましたよ。(※今泉喜一郎さんの弟で球都桐生傘寿の主将を務める今泉悦二さん)

球都桐生傘寿で主将を務める今泉さん(写真右)も稲川監督の教えを今実践している

稲川監督が打たせた“涙の満塁本塁打”

稲川さんのおかげで「こんなに自分は成長できたのか」っていうのが、現役時代に南海(現:福岡ソフトバンクホークス)戦で満塁ホームランを打った時のことです。

その時に水原(茂)監督と握手した写真を今でも私持っていますけども、その時にすぐ浮かんだのが稲川監督の顔だったんですね。

私は生まれる前から父親が31歳で亡くなって、親父の顔を見たことないのが、そこになんとなく自分の親父の姿も出てきてね。自然と涙が出てきた。もう何とも言えなくて。

その次の正月に稲川監督へ挨拶に行ったら、その時の満塁ホームランの新聞を持ってて「お前こうやって出たんだぞ!」と。その時監督の顔を見て、「監督のおかげです」と自然と出た涙がね、いまだに忘れないです。

今私も86歳で野球をやれていて、ずっと野球一筋の人生。思い出がたくさんあります。

26年誕生した球都桐生傘寿の監督として86歳の今もユニフォームを着ている